出典: https://dock.geidai.ac.jp/wija/creators/%e6%88%b8%e6%9d%91%e6%9c%9d%e5%ad%90/ 印刷日: 2026-10-22

戸村朝子さん(ご本人提供写真)

戸村朝子

とむらあさこ

主な所属
ソニーグループ(株) 、ARTn
主な役職・肩書
元ソニーグループ(株) 統括部長/プロデューサー、ARTn CEO
デビュー作

資生堂時代:パリコレのオンライン記事サイト「花椿エクスプレス」(1997~99)。

アニプレックス時代:放送連動待ち受け配信「BLOOD➕」(2005)、オンライン専用のテレビアニメ品質のオリジナルビデオ 高橋良輔監督「Flag」(2006)

代表作

ウェブ「NHK 放送50周年南極プロジェクト」(2003年 教育コンテンツ国際コンクール日本賞 ウェブ最優秀賞)

CM「スマトラ島森林保全活動」(2012年 第16回 環境省 環境コミュニケーション大賞 CM部門 優秀賞)

インスタレーション「音響回廊“オデッセイ”」(2019年 文化庁メディア芸術祭 エンターテインメント部門 審査委員会推薦作品 )

キーワード
#ソニー, #アニプレックス, #プロデューサー  
タイトル
インタビュータイトルサンプル
聞き手
須川亜紀子、石田美紀
構成
石田美紀、須川亜紀子
編集
須川亜紀子
インタビュー日
2026年1月
インタビュー場所
都内某所
公開日

――子どもの頃からアートとの関わりはありましたか?

分かりやすいかもしれないですが、母が絵描きでした。銀座の画廊や百貨店で個展を開いたり、家にアトリエがあり、小さい頃から私も絵を描き始めて、母が地域に開いている絵画教室や、他の先生のところにも通い、絵を描くことが好きで没頭しておりました。それで色んなコンクールで結構な賞も取りまくるんですよ。ですが中学校で部活が始まると、絵を描かなくなった。高校の時に美大を受けようかどうか迷っていたんですけど、母から才能が中途半端だときつい道になると。

父はエンジニアで、設計図も広がっている家でした。小さい頃から理科も好きで高校時代には、生命科学が注目されていて、近接する分野の化学に進学しました。

でも、やっぱり美術が好きだな、みたいなのが残っちゃっていました。大学院もそのまま進学したのですが、理学系の場合、社会への応用から遠い中での実験生活がどうも向かないなと思っていました。修士は一応出ましたが、その後、別の学部でメディア・アートを学ぶ中で、コンピュータ・グラフィックとインターネットの黎明期に触れ、それが資生堂宣伝部やソニーでやってきたものに直結します。

――貴重な人材ですよね

資生堂も丁度採用の氷河期の年にあたってしまい、それまで200人採用していたところを19人に絞った年だったんです。化学とメディア・アートとインターネットがわかる新人ということで、面白がってもらえた気がします。ずっと軸は変わらず、先端技術を活かした新しい表現の探索や、インターネット配信がまだはしりの時期の映画、アニメ等のオンライン事業など、常に未開拓なゾーンで計30年間、資生堂で5年、ソニーで25年ほど仕事をさせてもらいました。

――すごいキャリアです。理系と文系も両方わかってらっしゃるっていう貴重な人材ですね。今はそういう人は増えているかもしれないですけど、理系に行く女子学生もすごく少ない時代ですよね。

学生時代、まだまだ社会は男女区別がある時代に見えていました。自分は古典的な女性像から徹底して離脱しないと、と思って、その重力から逃れたかったんですよね。それもあって大学院まで行きました。そこまで行ったら、もうこの人はしょうがないと思われ世間からほっておいてもらえるじゃないですか。また企業に染まり切る人生は多分向かないなと思っていたので。みんなで並んで何かやるより、いつもちょっと違う方を向いちゃう人なんです。それもあって、自分の好きなことやらないと、絶対にやめると思っていました。振り返ると、寄り道の多い人生だったかもしれませんが、全く今も後悔がありません。未踏の新しい分野の現場が多かったので、そこには性別はなくて、女性活躍なども意識せずに50才くらいまでやれたのは、環境や人に恵まれていたと思います。その後、研究開発部門にマネジメントとしていたのですが、タイムマシンに乗ったような男子校の様相に、わかってはいても驚きました。ソニー入社後は、ソニー・ピクチャーズの日本法人や、アニプレックスの立上げ期など、エンターテイメント事業にいた時は女性がそれなりにキーな立場で自然にいるんですよ。でもソニーの特に研究開発部門では女性のリーダー、マネージャー層がいない。ヨーロッパには2人、研究所長の女性がいてその方たちとは仲が良かった。日本は部長が50人いたら、女性は1か2人じゃないでしょうか。圧倒的なマイノリティでした。

――女性が仕事を諦める率が高いというデータがありますよね。当時の労働時間はどうでしたでしょうか?

全く真似しちゃダメですけど、20代を過ごした資生堂は銀座7丁目にあって、仕事が楽しいから帰らない。さすがに会社に泊まりすぎてもアレなので自腹で、一番安い部屋ですけど、歩いて100mくらいの日航ホテルに、家に帰る時間が惜しくて週に2回泊まっていたんですよ。当時はインターネット商用化の黎明期でやればやるだけ楽しい。ホテル代で家賃が出るなという域になって、古いマンションを借りて、そこで思いっきりやっていました。労働時間は多かっただろうと思います。特に新規事業に携わる事が多かったので、これは45才くらいまでずっとそうでしたから、あまり参考にならないかもしれません。

――アニメとの関わりは?

ソニー入社後、30代のほとんどはソニー・ピクチャーズ、アニプレックスでした。配信黎明期ゆえに配信事業立ち上げができる専門家がいないということで、呼んで頂けました。ソニー・ピクチャーズでは、携帯電話専用の映画やアニメのサイトを立ち上げました。外資の洗礼やIPのビジネスの仕組みはここで叩き込まれました。

携帯事業が1年程で立ち上がって、サービスも始まり運営チームも整ったところで本社に戻ったら、次にアニプレックスにとなり、その時の作品は2004年『鋼の錬金術師』のあたりなんですけれど、アニプレックスはまだ全然有名じゃなくて社員も40人ぐらいでした。私にとっては版権を扱えるというのが魅力的で、例えば『スパイダーマン』の版権は、ソニー・ピクチャーズではなくマーベルなので、当時まだ新しかったデジタル商材のライセンス許諾が結構大変でした。アニプレックスはまだこれからの会社だけれども版権を扱えて、それもマーケティングから配信、デジタル商材まで360度扱えるし、当時は回線はまだ細かったんですけど、携帯電話の待ち受け画や声優着ボイス、電子漫画、アニソン着うたなど、いろいろ工夫してやりました。もちろん今では特別なことではないですけど、映像のオンライン配信も。

アニプレックスも作品数が増えて、年間20を超える作品の製作委員会が立ち上がり、各作品の宣伝やデジタル配信のオンライン担当をしていました。最初は社員わたしひとりとアニメに詳しいスタッフで始まりましたが、組織ができて人も育って安定したところで、ソニー本社に帰任しました。

戻ったっていうか、入り直したに近いですね。感覚としては。そこから15年本社にいました。最初の5年CSR部の課長を務め、会社の資産を活かした社会貢献事業を強化するタイミングで、CSRイノベーション課を創設し、アフリカや南米、東南アジアの奥地など、環境課題や社会問題がある現場を世界中いろいろ行き、国連や国際NGOと共にプログラムを一緒にやったり、これは自身にとってはまったく新しい体験で、新しい経験の地平が大きく拓けた時期でした。

その後、研究開発部門に移り、これは自分の理工学生時代と重なるのですが、ゴールが見えずに研究開発をずっとしていても、どういうふうに市場に使ってもらえるか、プロトタイプというか、アイデア出して企画してプロトタイプまでするような体験の証明までやらないと、ずっと研究を研究側でやってるだけで実現への谷を超えられなくなってしまうな、と思ったんですよね。マネタイズに通じる道が示せなければ、特に企業のR&Dの場合は続けられないです。それが学生時代のメディアートとコンピュータ・グラフィック、インターネットといった先端技術と表現が複合的にわかるバックグラウンドがすごく活きたんですよね。

――日本のソニー以外の、例えばパナソニックとか競合のメーカーがコンテンツに乗りそびれてる中で、ソニーだけが先見の目があって、いろいろエンタメのほうに技術を生かすっていうのがあると思います。ご経歴はその最先端ですね。

パナソニックにソニーはベーカム戦争(注1)で負けているんですよね。実はその悔しさがソフト重視の下地になっています。技術が良くても、体験との合せ技がなければ使ってくれない、商売にならないっていうのをベーカムで負けた反省から、特に新しい技術規格を市場に出す折には、あわせてソフトもちゃんとブーストするような機能がないと使ってもらえないっていう観点でできたのが、私がいた部署のルーツです。Blu-rayディスクや4K、HDR推進の戦略室だったんですね。その後VRが再浮上した2015年に私がこちらの部署に呼ばれました。元々理系で、映像・アニメーションの新規事業経験あり、メディア・アートが専門で何でもできそうだからというのが理由だったそうですが、VRもやりながら他の研究開発テーマのプロトタイプを作る為の社内チームを作ろうという動機にもつながりました。

(注1. BETACAMの通称。ソニーが開発したアナログコンポーネント記録のカセット式VTR。ビクターが発表したVHSと、ソニーのベータの規格争いのこと。)

――自分のやりたいことをやらせてくれるような会社だったんですか?

それに価値があれば任せてもらえます。競争力がなければそれは趣味の範囲でしょうし、今のビジネスに対してどういう噛み合わせがあるのかが明確にできると、いいね!となり責任と予算を持たせてくれる。ちょっとうまくいってくれば、ヘッドカウントを増やし、燃やし続けている焚き火のようになる。それが3年くらい何ラウンドかやって、どうもうまくいかなかったら、判断も早い会社なので解散を食らうこともあります。それが私は研究開発部署に行った時にもったいないと思ったことでした。価値証明ができなくて、何年もやってきたことが中断させられちゃうって、人生飛ぶじゃないですか。せっかくやっている研究のバリューをどうやって世の中にインストールできそうかのアイデアを、まず何が特徴点かを探ってツボを得て、それで作ってみせてテストをする。なんかありそうだったら、それらを何回か繰り返してそれが製品やサービスになるというプロセスをする中で、もちろんある程度の勝率がよくないとテーマを預かれない、というのはもちろんあります。

部長時代は面白かったかと言われると、やるべきことをやったという感じです。[病院で例えると]急患という難題がバンバン来るのに面白いかどうかとか、「この怪我はちょっと・・・」とか言ってられないじゃないですか。マネジメントになるほど、そんな感じだったかなと思います。そこは組織として団体戦で成果をだすという性質に貢献が変わって、影響する人たちの数も多くなり、行動も判断もよりシビアです。

――キャリアを積まれて、大所帯になっていった時に、いろんな人がいる中でマネジメント、人を育てるとなると、数字を出すのとは、また別のところでお仕事増えると思いますが。

エンターテインメント分野は比較的実力重視で、ソニーの場合は結果が伴っていれば性別は関係なかったんですよ。アニメーションもマーケティング部長が女性だったり、映画部門長が女性だったりするんですよね。あと、ソニー・ピクチャーズ米国本社も副社長やCSR役員は女性でした。そういう中で、アニプレックスもソニーミュージックグループの中の当時は新規事業だったので、人をそういったところで選んでもいなかったと思います。女性もすごく多くて、性別全く気にしないで働いていました。私が「ネットでこんなことできるんだけどやらない?」、といった時に、まず「やってみよう」って言ってくれたのも女性のプロデューサーたち。小さい成功を見せて、そうするとだんだんみんな頼りにしてくれる手応えがありました。ある意味、そういうところで会社中の全プロデューサーと友達になれました。もうアニプレックスを卒業してから15年経ちますが、あの時は頑張ったね、なんて話がいまだにできる。女性のプロデューサーの同輩後輩にはたくさん助けられたし、役員にも女性がいたので、よく飲みに行ってガス抜きしてくれたり、そこは恵まれましたね。本社に戻ると、ヘッドクォーターでは英語も堪能な女性も結構多く活躍していました。そうするとやっぱり男女区別はあまりなくて実力重視でした。

――足引っ張る人とか、嫌味を言う人っていうのは、あまりいなかったですか?

陰で何を言われているのかは、わからない。そもそも聞かないですからね。男性たちがマジョリティのところに入った時に気づいたのが、男性同士は十分ものすごい競争しているので、その中では私は常に「その他」なんですよ。だから波にも乗るわけでもない。無派閥だし、誰かの弟子でもないので、珍しくエンタメ事業から来ているから誰とも話すというのが、中立の立ち位置って感じでした。もし競争に参加したら嫌な思いをしていたかもしれないです。

――やっぱり女性ってマジョリティの輪に入れないっていうのもあるけど、あえて入らないで、外側から見るっていう強みもあるんですね。

CTO(Chief Technology Officer)にスタッフとして研究開発部門の時にお仕えしていたんですけども、CTOはR&D組織を全部見ている神様みたいな感じになるじゃないですか。コミュニケーション補佐も担っていたので脇でみていると、研究開発において健全な競争は必要なんですよね。私はその全体で起きていることをコミュニケーションとして、外から見た時にどう伝わるかを考えながらの設計もしなきゃいけない。だから、全体を間接的にですが触れる貴重な経験でした。

それはかなり客観的で、サッカーのゲームを観客席で見ているような感じです。皆さんとは仲良くやれたかなとは思います。本線を歩いていない私と競争してもしょうがないっていうか。自身はその時、その時に、ベストと思うプロフェッショナルワークをするのみと思っています。

――日本の企業ってゼネラリストと、プロフェッショナルのところに入る、のでは全く見える世界が違うと思いますが、モチベーションをどんな風に保たれてきましたか。

これまで手つかずの新しい領域が長かったです。ソニー・ピクチャーズもアニプレックスの時も、あとCSRも。CSRというのは、世界市場で戦っている企業ほど基準が厳しくて、NGOと一緒に社会課題に向き合うっていうのも、どちらかというと事業に近い技能が求められます。MDGs(ミレニアム開発目標)を掲げていた2010年くらいだったので、まだCSRやサステナビリティに関心が今ほど高くなく、かっこよく言えば新しすぎてまだ価値付けされてないから、多くの人が向きあわない時期にそこに携われたという経験は大きいですよね。本気でやりたい人たち、志を持った世界中の人たちと出会えて、本当に大事な世界の観方を知ることができたというのは貴重な機会でした。

――会社と外の違う世界とのインターフェンスでいらっしゃったって感じですね。

外とのインターフェンスとして感度を高くして、外からの隕石や黒船に組織があたらないように、タイミングよく次の潮流を事業に取り込んだりもして。デジタル配信黎明期に事業立上げに携わったのは2000年から2010年くらいまでですね。その時はまだネットフリックスも、スポティファイも存在感が薄い頃です。経営者がやらなきゃいけないなと思った時に、やれる人いないかなっていう時に、そこになぜか出くわすみたいな偶然がまた次の偶然を引き寄せるという感じでした。

――それは運命に選ばれて、でしょうか?

選ばれているんでしょうかね? そんなに優しい企業でもなく、こいつは頑丈だから大丈夫だろうって感じです。もし「こいつは優秀だから」であったら、本社にキープされていたかもと思うんですよ。そうじゃなくて、次の戦場はあっちだ〜、次はこっちだ〜みたいな。でもそっちの方が、私は身体的に入らないと学べないたちですから性に合いました。

いつも端っこを歩いていたら、そこに次の注目が来るみたいな。それはもう出くわすって感じですよね。出くわした時に自分の予感が働くっていうのが一つ。CSRに異動した時は、これまでの経験の延長にない領域だったので驚いたんですが、当時のCSR部長さんがアニプレックスまで来てくれて、「来ない?」って仰っていただいて、「嘘〜!なんで私なぞ?」って。ですが、自分が想像できることなんてちっぽけで、行って良かったですし、出会いと偶然は大きいですね。その時に行ってみようと思うか、体に聞くっていう。いわゆるエリート街道は歩いていないですが。

――でも外部から見ていると、メインの流行の先端を行ってらっしゃる感じです。

流行になった時には、次に向かっているからそこでは偉くならないでしょ。お山の大将になりそうになったら長く居座らず、次の人たちに譲っちゃおうと。物事は世代を超えて続いてナンボだと思っていますから、引き渡すタイミングも重要です。

――子供の頃のお話も伺わせてください。本や映画など、どんなメディア経験がありましたか?

家のアトリエで母が地域の絵画教室をやっていて、子どもたちが毎日20人くらいやってくるわけです。美大を受ける高校生にも教えて、家にずっと人が行ったり入ったりして、画集や絵がたくさんあって、メディア体験という意味では、絵に没入していたと思います。あと、絵画界の先生方のところに連れて行かれて、仕事の話をしている脇で静かにしている。今だったらスマホかタブレットを与えられているんだと思いますが、脇で静かに絵描きの先生方同志がワーっと喋ってるのを見てました。結構、アーティストの先生たちって面白いじゃないですか。大人たちが何か喋ってるな、みたいな。そういう環境が影響はしていたでしょうね。

小学校にあがってもけっこう引っ込み思案で、ずっと図書館にいたんですよ。昼休みに給食食べた後、みんなドッジボールとかするじゃないですか。私は図書室で一人でSFを読む。で、当時の小学校の図書館にあったSF全部読んじゃって、新しいのを入れてくれっていう生徒だった。端から端まで2回くらい読んじゃって覚えてしまう。そこで拡がった物語世界への没入の感覚は今も覚えています。また最初に買ってもらったLPはYMOの東風でした。家に買ってくるものも多分少し変わってたんだとは思います。

あと孤独だったんですよ。いい意味で孤独が大きかった。寂しい孤独じゃなくて、一人が好きっていう。ずっと本を読んでたりする。ご飯より本、そういうとこですかね。

――テレビとか映像関係はあまり見なかったでしょうか。

普通にテレビは見てました。ゲームは4年生の時に任天堂のゲームボーイを友達が持ってるからとお願いして買ってもらった。それ持ってないと会話に入れないみたいなことがあったんですよ。

あとは、漫画は友達に借りてました。萩尾望都とか。漫画部の子たちと仲良かったですね。

――では、反抗期はなかった?

反抗期ありましたよ!ですが母がアーティストなんで、もっと強いんですよ(笑)。父は仕事であまり日本にいなかったです。プラント設計のエンジニアで、アルジェリアとかロシアとか世界中に現場監督として行って、年に半分くらい日本にいたぐらいです。父を尊敬していますが、高度成長期の働く戦士でした。

高校に行ったら、合わなくて最短の出席日数で出て、さっさと大学行こうと思って。部活もやってましたが、授業を抜け出して休んじゃおうぜみたいな。公園とかでサボったり、渋谷とかに、なけなしのお小遣い持って繰り出すみたいな。

よく見た夢は、正の字で各科目の出席を自分でとっていて、ギリギリの出席数で卒業しようとするのだけど、夢で見るのは、「計算を間違えてた、一年留年だ!」で、ガバッと起きる。で、夢だった。先生方にはあんまりぐちゅぐちゅ言わないで、こんな私でしたが卒業させてくれてありがとうって思っています。

結果から見ると華やかで、好きなようにやってるキャリアだと思われるんですけど、何でしょうかね、自分が望んだ通りに歩めているわけではないんですね。苦しいところもありました。

――どういうところで望んだ通りではないと感じられたのでしょうか?

毎回が連続してない試合みたいな感じで、毎回全力で結果を出すってことに集中するって感じです。仕事の報酬は仕事、という感じで、キャリア論にはPlanned Happenstanceという計画的偶発性理論というのがありますが、自分が描いていたものより、偶然や出会いに導かれて流れていく方が多かったですね。それが、思いがけないふり幅の広さにつながったのだと思います。

――やっぱり男性と女性では、見渡す限り女性がいないところだったら、違うやり方、ゲームをしないといけないと言うことでしょうか。

女性でむずかしさを感じるのは飲みニケーションですかね。若い時はまだいいのですけど、役職がつくと一応気を使うっていうのはありました。男性に「差しで飲みに行きましょう」が、まずできない。できないに近い。部下にも同様ですね。できるとは思いますが、あんまり繰り出せない。エンターテイメントも芸術界も、人を深く知ってなんぼでもありますから、別に男性と女性が飲んだところで誰もまず何も思わない。一方堅めの職場では、かなり気を使っていたと思います。そうですね。だからアイデアとか実現力でオリジナルな結果を出すしかなかったですね。

――デビュー作にあたる業績、代表作的な業績を教えてください。

資生堂の時に、パリコレのサイトとして1997年に立ち上げた「花椿エクスプレス」というウェブ企画です。資生堂がパリコレのモデルさんのメーキャップに長く貢献していたので、そのアセットを活かしたいと思った企画でした。当時、パリコレって3、4ヶ月後に「VOGUE」や「ELLE」などの雑誌で記事が出るじゃないですか。「花椿エクスプレス」では、花椿編集長の方にその日のランウェイの後、テープに原稿を吹き込んでもらって、翌朝までにテープ起こしをして、パリのホテルのFAX回線を借りてISDNで東京に送るみたいな。特に記録されていないと思いますが、どう考えても世界最速、世界初のパリコレのオンラインサイトだったと思います。

あと資生堂の公式携帯サイトのリリースは化粧品界では初で日経新聞の一面に出たりしたこともあります。ちょっと飛んで、アニプレックスで、最近押井守監督が新作『装甲騎兵ボトムズ』をという発表がありましたけど、高橋良輔監督をお迎えしてオンライン専用のテレビアニメクオリティのオリジナルビデオ『Flag』を、元サンライズのガンダムファーストのプロデューサーの植田益男さんの企画で、私もオンライン配信の役割で携わらせてもらいました。テレビ品質で配信専用というのは、今でこそ当たり前ですが、当時2006年、13本のシリーズものとしては日本初なはずですね。当時はテレビに作品をかけないなんて、酔狂なことでした。あとMBSの日曜6時枠、『鋼の錬金術師』を放送している枠で『BLOOD➕』というプロダクションI.G作品を担当した時に、放送連動配信をやりました。番組放映と同時の待ち受け配信などの施策です。まだ映像を流せるほどの帯域がないので、放送にパスワードを出して、『BLOOD➕』の待ち受けがDLできるってことなんですけど、『機動戦士ガンダム00』が最初にやった次で業界2番目なはずです。『BLOOD➕』のウェブも作っていました。オリジナル作品だったこともあり自由度高くやらせてもらいました。『攻殻機動隊』も大好きだったので、寝ないでやるわけですよ。会社に泊まって、もう全然24時間、不夜城でしたから。思いっきりやらせてもらえました。

――本日は貴重なお話をありがとうございました。