出典: https://dock.geidai.ac.jp/wija/creators/%e7%9c%9e%e8%b3%80%e9%87%8c%e6%96%87%e5%ad%90/ 印刷日: 2026-10-22

眞賀里文子

まがりふみこ

主な所属
真賀里事務所代表
主な役職・肩書
人形アニメーター、演出
デビュー作

『ピノキオの新しい冒険』アニメーター(監督:ジュールス・バス、脚本:アーサー・ランキンJr., 1960年)

代表作

『くまの子ウーフ』(1983年)監督

キーワード
#人形アニメーション, #立体アニメーション, #コマ撮りアニメーション
聞き手
須川亜紀子、米村みゆき、特別ゲスト:松本紀子(プロデューサー、ドワーフ共同創設者)
構成
須川亜紀子、米村みゆき
編集
須川亜紀子
インタビュー日
2025年8月
インタビュー場所
東京・マガリ塾
公開日

――まず、どのようなきっかけで、アニメーションを始めることになったのでしょうか?

もともと私は、人形遊びが好きだったんです。昔はリカちゃん人形もない頃でしょう。だから丸い棒の先にある、お祭りで売る和紙の着物を着た花嫁人形で遊んでいて、姉たちが使わなくなったものをもらって自分で工夫して遊んでいました。

昔の絵本は割合固い大判の絵本なので、それを切ってドアや窓を作って、セットを作ったのです。紙をこのように切るとベッドになるとか、椅子になるとか、作って遊んでいました。とてもわんぱくな子だったから、人形遊びばかりをしていたわけではないけれど、人形は面白かったですね。

人形ってなんだろうと思い、面白くて。それで学生時代はずっと人形劇や、操り人形などいろいろやっていて、美術のアルバイトをしました。藤浪小道具という、歌舞伎座の小道具作る会社が浅草にあるんです。そこへアルバイトに行っていた時に、「すごく面白いアルバイトあるから行ってみる?  人形でいろいろなことをしているところだよ」と言われて行ったところ、それが持永只仁さんがやっていた人形映画制作所でした。1959年ぐらいのことです。

――最初は紹介だったのですね。

野口鎮さんという仏像専門の彫刻家がいて、藤波小道具で一緒にアルバイトをしていたのです。私が頑張っていたので、とても人形好きに見えたのでしょう。紹介してくれたので行ったら、『王さまになったきつね』(1959)(注1)を撮影していたのです。ラッシュを見たら人形が生き生きと動いている。衝撃的で、すごくびっくりしました。「もしかして私はこれをやるために生まれてきたの?」と思ってしまいました(笑)。

(注1.『王さまになったきつね』は、持永只仁の人形アニメーション作品。)

――アニメーションと持永さん、両方の運命の出会いだったのですね。

「私は、これやるために生まれてきたかもしれないので、人手が欲しいときには、絶対私を呼んでください」と言ったのです。そうしたらアーサー・ランキンJr.(注2)の仕事が始まった頃に、割と早めに呼んでもらいました。アニメーションという言葉も知らないまま、持永さんの助手をずっとやっていました。初めてあれ見たらびっくりするでしょう。普通の人形が生き生き走るのだもの、動くのだもの、泣くのだもの。本当に衝撃だった。その衝撃のまま、88歳まで来ました。来月89だけどね(笑)。

(注2.アーサー・ランキンJr.(Arthur Rankin Jr., 1924-2014) は、アメリカのアニメーション作家。代表作『赤鼻のトナカイ ルドルフ物語』(1977)など。)

――持永さんの第一印象はどうでしたか?

持永さんは、すごい人です。イメージもとてもあるし、イメージを形にするための脳みそがすごい。ものすごく頭のいい人ですね。一時、イジー・トルンカが関節人形やって、それを見て持永さんが真似したっていう人がいたのだけど、関節人形は持永さんの方が早いのです。トルンカが伊勢丹で、「バヤヤ王子」展をしたとき私も見に行ったのだけど、その時の人形が関節でした。でも持永さんは関節人形を中国でやり始めたのだから、彼の方が早いのです。立体を始めたのも持永さんの方が早いです。でも、朝日新聞の論説委員をやっていた飯沢匡氏(注3)が文書を書いちゃったわけ。川本喜八郎さんをたてるためだったのかな。飯沢匡氏は川本喜八郎が大好きで可愛がっていて、トルンカの弟子として売り出したかったからだろうね。

(注3.飯沢匡(1909-1994)は、劇作家、演出家、小説家。戦後『婦人朝日』や『アサヒグラフ』の編集長をつとめた。)

実際は、持永さんが最初に川本さんに手取り足取り教えたの。たとえば、女の人が一緒に座るシーンについて川本さんが「持永さん、ちょっと教えて」って言ったとき、「よく見ていて、女の人が椅子に座る場合、こういう風にするから」って、みんなの前で持永さんの奥さんが椅子に座るところを見せた。それで「じゃあ川本さん、やってごらん」ってやらせたのだけれど、やはりきれいにいかないわけ。川本さんは「こんなに難しいものなのか」と驚いていました。持永さんは「僕がやるのを見てごらん」と言って、人形でアニメーションをして座らせてみせた。「じゃあ、ここでこうやってここを持ってね、こうしてこうするんだよ」などと本気で教えたのね。川本さんの立体のいろはは、1953年朝日ビールのテレビCM「ほろにが君とミツ子さん」全2作で持永さんに徹底的に教え込まれたものだけれど、世間的には「川本さんはトルンカの弟子」ということになってしまった。

NHKでは「川本喜八郎、アニメーションの師を訪ねる」という2時間のドキュメント番組が作られた。私や持永さんの人形映画製作所でやっていた子たちは、「持永さん、この歴史は違うから、きちんと言って」と言ったのです。でも、持永さんは「今は、そういうふうに言いたいのだから、そこで僕がどうこう言ったところで始まらないし、いずれ分かることですからいいです」と。持永さんはそういう人なのです。誰が何かを言っても怒らない人。そして、とても知識がある人。マルチプレーン撮影台を『アリチャン』(注4)で取り入れたのも持永さんが最初だったのです。

(注4. 短編アニメーション「アリちゃん」(1941)。作画・演出:瀬尾光世、製作:芸術映画社。持永只仁が動画を担当した。日本で最初の本格的な多層撮影、四段マルチが使用された。)

持永さんは『桃太郎の海鷲』(1943)で絵を描いていて、絵もうまいんです。トルンカも絵がうまい。あの人も立体の前はドローイングを描いていたの。2人ともドローイングをしていて、両方非常にうまいため、すごくよく似ています。だから、立体になったときのコマの使い方がうまい。持永さんもドローイングで非常にうまいアニメーションをしています。実は『フクちゃんの潜水艦』(1944)は持永さんが監督なのだけど、監督協会に入っていなければ監督としてタイトルに出せない時代だったから、クレジットされてないのです。実際にはとても大変な中で、持永さんは監督をやっているのです。でも、その事実をほとんど誰も知らない。当の持永さんは「そんなのはいいでしょう。僕の名前を出せないのなら出さなくていいのではないか」と言っていました。

――欲がない方なのですね。

欲がないというより、心が広いというか、こだわらないというかそのような人なのです。持永さんが立体アニメーションを作った理由は、操り人形でアニメーションを作ってほしいと言われたからです。でも糸繰りは非常に上手い人じゃないとできないでしょう。持永さんには自分でイメージした動きのコマの感覚があるのに、そのコマ通りに動かない。だから、糸ではなくて関節が入っていたらどんなにいいだろうと思い、まずは関節を作るようになったのね。ちょうど木村荘十二監督が関節が入っているフランスのポーズ人形を持っていたので、借用して研究して関節の人形を作った。持永さんは中国の技術系の男たちを集めて、関節人形を描いた絵を渡し、関節を作らせたらしいです。でもみんながそれほど上手ではなかったから、使えたのは100個中2個ぐらいでした。それでも「みんな頑張って作ってくれたから」と言って関節人形を使ったの。糸繰りの関節を使ったのはこれが最初でした。その前の関節人形には鉛も使っていて、それはトルンカより大分早く使っているのです。持永さんは中国で立体アニメーションを作っていたのですが、結局日本に帰国しました。黒人問題のために上映機会がなくなり見てない人が割と多いけど、『ちびくろさんぼのとらたいじ』(1956)も作ったのです。

――DVDではまだ出てないですね。

紀伊國屋出版のアニメーション作家のアンソロジーを作った時、「ちびくろさんぼ」が蔑称であると世の中で騒がれていたので、持永さんの「ちびくろさんぼ」は入れられなかったという経緯があります。持永さんはそれ以外にも何本も作っているのです。谷内六郎さんという週刊新潮の表紙をずっと描いていたなかなかいい作家がいるんですが――その息子も絵描きで、週刊新潮にも描いていますが――その谷内六郎さんの奥さんが人形を作ってるのです。持永さんの作品で、『ペンギンぼうやルルとキキ』(1958) だったと思いますが、その人形は谷内六郎さんの奥さんの人形です。川本喜八郎さんも人形を作っていて、『こぶとり』(1957)も面白いし、何もかもみんな面白いです。ところで、持永さんが作品を作れなくなった理由はわかりますか?

――いえ、わからないです。

1958年の第1回バンクーバー国際映画祭で『ちびくろさんぼのとらたいじ』が児童映画部門最高賞を受賞したのです。それを見たアーサー・ランキンJr.が、「こんな面白いものが日本でできるのか」と感動して、日本に作品を発注したのです。為替レートが360円の頃ですね。でも、持永さんはそれはやりたくなかったのです。広島、長崎、焼夷弾が雨のように降ってきた東京大空襲など、日本がどれほどアメリカにやられたかを、みんな知っているから。3月1日は、新潟の長岡市が酷い空襲受けて3分の2ぐらいが焼けたとか、そういう歴史があるでしょう。だから「アメリカの仕事はやりたくない」と言ったのだけれど、持永さん自身がお金を持ってなかったのです。中国から帰国したときは、電通映画が入ってくれていました。その時、大村英之助と松本酉三のお二人が、「もっちゃん、ランキンの『ピノキオ』だけやったらカメラ買えるし、足もパルボ撮影機を買えるからアニメーションできるよ」と言われ、持永さんはそのつもりで始めたのです。

アニメーターは持永さんと、持永さんが教えていた助手が2人いたのだけど、3人しかいないところに5分シリーズの仕事が120本入ってきたのです。その時、私も入りました。アニメーションのアの字も知らない者たちが集まった。博報堂でプロデューサーをやっていた人、京都の太秦で殿様役をやっていた男の人、民藝で宇野重吉と芝居やっていた井出さんなど、6、7人集まって、持永さんは教えながら、自分もアニメーションをした。だから、とても大変だったのだけど、ランキンのほうからは絵コンテ、デザイン、セリフ、セットの図面、音楽も送ってきたから、ある程度パッケージとしてあるところに人形を動かす作業だけなので、稚拙でも面白く見える部分もありますよね。そのような中で、ランキンはアメリカのテレビの三大ネットワークの二つで流したと言っていました。それで彼は儲けたと。皆はランキンとの仕事を続けたいと思ったのだけど、持永さんは『ピノキオの新しい冒険』だけで絶対にやめる、という決心が固かったのです。

その頃、おそらく持永さんの作品を残すために、大村英之助、松本酉三が中心となってMOM(注5)が作られたのだけれど、フィルムの倉庫が燃えて今までランキンと契約していた作品が無くなってしまった。アメリカの仕事は契約関係がしっかりしているから、大変な違約金を払わなくてはいけなくない。私が朝に行った時には、レンガの倉庫が燃えることあるのだというくらい、下だけがぐちゃぐちゃになってて燃えていて、びっくりしました。

(注5.MOMプロダクションは、1960年の人形映画製作所の活動停止にともない、同年9月大村英之介、松本酉三とともに持永只仁が作った人形アニメーション制作会社。)

――原因は分からなかったのですか?

原因はぼやってことになり、焼けた分の再撮に取りかかりました。全員が1週間以上徹夜状態で、本当に大変な状況でした。毎日毎日朝から晩までアニメーションをしてはちょっと寝る。ある時セットの上でまわりを見ると、カメラマンはカメラのマガジンに覆い被さって寝ている、いやまわりはみな寝ている、私だけが起きて動いていました。スイッチ押してって言っても誰もいない。それなら私も寝ようか、みたいな状態でした。結局、持永さんはこの仕事から抜けられなかった。それで何本も何本も何本も発注が来て。だから、『ルドルフ 赤鼻のトナカイ』(1964;日本上映1967)、『Mad Monster Party?』(1966)と制作が続いて、持永さんはもう本当に疲弊してしまったのです。『Monster Party』は、これは絶対に日本人がやる作品ではないって言って、持永さんは徹底的に断ったわけです。そうしたら、大村英之助と松本酉三のお二人が、映画産業労働組合にいる若者を連れてきて、『Monster Party』を作るチームを作ったのです。「持永さん、やらなくていいです」と。私も『アンデルセン物語』(1966)をやっていて、裸の王様、人魚姫、親指姫に、みなが関わっていました。映産労の人たちは、アニメーターも労働者だから徹夜はダメで、6時頃には帰らなきゃいけないと言うので、私たちが撮影をしていても、3人来たら3人共早く帰るのね。ほかの人たちはこんなに面白い仕事をしているのに早く帰るなんてもったいないと思う人ばかりでした。

映産労の人はライブの映像がないとアニメーションができませんから、ライブ映像を作ってくださいと言って、モニターを見ながらアニメーションをしました。ほかの人たちはみな「テレビ見ながらアニメーションをしている。そんな方法があるのか?」とびっくりしていました。でも間に合うわけがないでしょう。結局そこでも持永さんが泣き落とされて、全員が手伝わなくてはいけなくなりました。私は『人魚姫』やっていましたが、もちろん『Monster』のほうも手伝うし、『人魚姫』もやる。『人形姫』ではアンデルセンのクリスという少年が人魚姫に愛されるけれど、最後は、さよならって泳いで帰ってしまうシーンでした。制作の男の子がずっと私の傍にいて、私の撮影が終わったらすぐそのネガを持ってアメリカに行き、現像しないと間に合わないようでした。彼はそばで何も言わないけど、私が終わるのをずっと待っている。それほど逼迫した状態でした。だから、あの火事がなければ、持永さんはもっと作っていたかもしれないのです。

とにかくとても大変だったのよ。だから、映産労から来た3人の子たちは、とても厚遇されていました。カメラマンは「こま撮りでカメラを動かすなんてサイン、コサイン、タンジェントで行けばいいんでしょう」などと大口叩いていて。こちらはカメラを駒で動かすことは、『ピノキオ』で習得していたから「困ったらいつでも教えてあげる」と言っていたのですが、彼らは意地を張って来なかったため、1週間経ってもできなかった。とうとう、「すみませんけど」と来て、こちらのやり方を教えて、「サイン、コサイン、タンジェントじゃ無理だったでしょう」と話した。それからはカメラも多少動けるようになりましたが、このようなゴタゴタがあったのです。その中でも持永さんは必死でやるから、本当に精神的に疲弊していた。『ピノキオ』の時にフィルムが燃えなかったら、持永さんを『ピノキオ』だけで解放してあげていたら、もっと作っていたと思う。MOMは1ドル=360円だったからすごく稼いだらしい。

北朝鮮の映画作品を作る時には、かなりの額を支援金として差し上げたようです。それが裁判になったこともあるらしいです。MOMからお金を出したことは、結局それは背信になるでしょう。松本と大村のお二人がしたことですし、裁判になってしまったけど、政治的には割と早めになかったことになったんだけど。私たちは1960年、61年、62年だから、月7千、8千円ぐらいの稼ぎだった。映産労から来た人たちはもっともらっていたと思う。政治的なところが関わって、持永さん関係の人たちはみんな安かったね。でも、私たちは、本当に面白いことをしていると思っていた。あんなに人形が動いたじゃないか!みたいに。ラッシュの度に嬉しくて仕方がなかった。

私は持永さんの助手をしばらくやっていたので持永さんをよく見ていたし、持永さんの苦悩や疲弊度をわかってきたから、彼の好きなものを作らせてあげたかったです。トルンカは国からお金もらってやっていた。でも持永さんは、中国で、すっからかんになって帰ってきた。田無の引揚者住宅にいたときは、今日は子供たちに何食べさせようか、というくらいのしんどい状態だった。その時に、飯沢匡さんたちと『ビールむかしむかし』を作っているとき、飯沢さんたちは「3時は資生堂の○○のお菓子がいいの」、みたいな話をしていました。この差は何なのかと思いました。それでも持永さんは、その頃の話について一度も愚痴ったことはありませんでした。「僕、特高がついていたんだよね。特高がついているのは嫌なのだけど、うちまで連れて行きたくなくて」という話はチラっとしましたが。朝日新聞を作っている飯沢さんは貴族院の人でお金持ちだから、引揚者の暮らしとは違いました。そのような状態でも持永さんは川本喜八郎さんに一生懸命教えてあげていた。そそのような状況の中で、川本さんが自分はトルンカの弟子ですと言ったので、まわりは、とても怒っていました。いま、日本で人形アニメーションを始めた人を尋ねると、「川本さんだ」っていう子もいるし、中には「伊藤有壱さんだ」って人もいるし。

エコー社の岡本忠成さんも、日本芸術学部の卒業制作のアニメーションは持永さんにずっと教わっていた。それまでドローイング(描き)ばかりだった学研がアニメーションを始めたとき、学研の有名なプロデューサーの原正次さんは、神保さんから「持永さんの所に行って、立体アニメーション教わってこい」と言われたのです。神保さんも持永さんからアニメーションを教わった。持永さんは、ありとあらゆること何も隠さないで熱心に教える人でした。岡本さんも川本さんも神保さんも持永さんが教えた人たちです。『ピノキオ』やっている時にも岡本さんはよく教えてもらいに来ていました。

一方、岡本さんは、プロデューサー的な力、大阪人魂というか商売人という部分がありました。私もとても長い間、岡本さんと付き合ってきました。エコー社の作り方(演出)は面白かったです。全員が自分の作品だと思ってやっていました。プロデューサーがいて、監督がいて、カメラマンがいて、みなこの作品を作るチーム。簡単な絵コンテはあるけど、たとえばカメラマンの吉岡さんが、「ここは動いたほうがおもしろいから、ここ動かしましょうとか」と言い、カメラワークを入れる。『おこんじょうるり』の人形でわかるように、エコー社の作品は、人形作家の保坂さんのそれぞれの作品に対するメージの広げ方の的確さと豊かさが、その基本を作っていたように思います。人形の芝居については「こう動いてください」という指示が一切ないため、すべて私が動かしました。いろんな動きを入れました。美術は美術で、面白いことをしていました。これやろうみたいなことをやっていました。だからエコーは面白かった。今もCM業界に一人だけ面白い監督がいますが、その人のチームもやはり全員が一緒に作品を作っているようです。本気でスタッフを巻き込んでいます。自分で作品を作るという意識が一番楽しいし力が発揮できる。そういう意味で岡本忠成さんは面白かった。

――お芝居は眞賀里さんがご担当されていたとおっしゃったのですが、そういった演出方法や技術も、持永さんから教わったのですか。

持永さんは、人にこうしなきゃいけないって言う方ではなかったです。アニメーションの手法を教えるぐらいです。私は持永さんについて見て覚えました。あの頃は24コマでした。土井技研が作った土井ミッチェル16ミリ(注6)を使っていたと思います。中のキレが少し破れてフィルムに入っていて、それで悩んでしまいカメラマンが暗室から出てこられなくなったこともありました。その人のせいではないけれど。『ピノキオ』の時は、外部に発注していたのも含めて10班くらい動いていたと思います。池袋でやっていたものだけでも6班ぐらいあったのではないか。

(注6. 土井ミッチェル16mmカメラ。)

――そのチームの中で、女性は眞賀里さんが一人でされていたのですか?

いや、『ピノキオ』の頃は女性が大勢いました。ただ、私が初めてCMをやりました。CM業界に女性が入るのはかなりあとのことでした。私がCMを始めたのは1960年の後か70年ぐらいでしょうか。その頃のCM業界では女性は私一人でした。

――女性であることで困ったこととか、困難だったことはありますか?

特になかったし、特に親切にされた記憶もないです。私は、本気で何でも面白がってやっていて、その作品の面白さを見つけるのは割とうまいと思うのですが、1回だけ帰ったことがあります。打ち合わせのときにカメラマンから「眞賀里さんがいるんだ。僕はこま撮りがすごく嫌いなんだよ」と言われたのです。だから「そうですか。すみません、じゃ私帰ります」と言って帰った。そこまで言われて、私はどこに居ればいいのかわからなかったから。あとは逃げたことはない。

バブルの頃ですが、3人目の子供産んでからで3週間目の時、どうしても来てほしいって言われて、アニメーションをしました。そのとき「眞賀里さん、おっぱいくさいよ」って言われて少し困ったことがありました。3週間ではまだおっぱいが出ているから。

――今であればセクハラですね。出産後3週間でお仕事をされたということなのですか?

そうです。3週間。バブルの頃だから。『コメットさん』(1967)の時は妊娠10ヶ月までやっていた。セットにお腹がつっかえるから、横にして、こうやってアニメーションをしていた。

――すごいですね、それは。

そんな大きいお腹をしても、みんな元気だった。『コメットさん』のお母さん役だった馬渕晴子さんが目を丸くして見ていたけど。妊婦がこうやって歩いてスタジオに入るのだから。

――びっくりしたでしょうね。

とんでもないヤツが歩いていると思ったのではないでしょうか。アニメーションをしなくてはいけなかったし、やりたかったから。だから、女性で差別を受けた記憶はありません。バブルの頃は本当にアニメーターが少なかった。及川功一さんと私と安藤映子さん、見米豊さんと5人、プラスあと誰がいたかわからないけれど、それぐらいだったから。だから、「眞賀里さん、ひと月先だけど」と言われ、先にスケジュールを押さえられる感じでした。休む暇がないくらいに売れていた。ほとんど毎日アニメーションをしていたのではないかな。1週間に3本とかあった。私はアニメーションが早くて、一日10秒ぐらいのアニメーションを普通にしていたから。今はPCで前のコマを確かめてからすすめる、そうしなければ良いアニメーションはできないという状況ですが、そうではなかったから。だから、今は逆にかわいそうです、そういう状況に縛られて。

――(松本)私は最初のCM業界だったので、その時代を知っています。何を撮ってるかは、アニメーターしか分からないです。

わかるのは3日後だもんね。ラッシュ見て。

――(松本)私がCM業界に入ったときは、こま撮りの企画があったら監督よりもカメラマンよりも誰よりも先に真賀里さんをおさえろと言われました。

そう、アニメーターをまず押さえたね。及川功一さんもいたし、見米豊さんもいたし、それぞれのアニメーターが個性を持ってた時代。今はおそらく個性持つとダメでしょう。丁寧に、綺麗に動かさなきゃいけないから。アニメーターが役者として人形を動かそうと思うのに、個性が否定されている時代になっていると思います。だから、アニメーションも面白くなくなるような気がする。なんでも「きれい」に行ってるから。アニメーションは、雑でも、ガタガタでも、意外に面白いの。役者だって個性あるじゃない。へたくそな役者だって面白い時あるじゃないですか。それが演技なのよ。マガリ塾は全然PCでイママエ見ない、タンクも使わない。飛ぶ時だけ吊りでやる。ただ、やるまでみんな楽しんでどう演技するかとワーワーぎゃあぎゃあと騒いでやっている。みんなで相談して、こんな動きがいいとか、あんな動きがいいとか。ライブ感覚でずっとやってたから、ちょっと面白かったね。だから、アニメーションのやり方っていろいろあると思うのです。ドワーフさんが一つの形を創ったとは思うけどね。

――(松本)本当に最近まさに思ったのですけれど、うまいアニメといい芝居とは違いますよね。

違います。伝わるか伝わらないかですね。

――(松本)そうなんです。だから、アニメができる人は増えているのですが、それがみないい役者かどうかといえばそうじゃないですね。

「伝わる」というのは、丁寧とは違う。細かく丁寧、CGよりきれいみたいなことが伝わるかどうかは芝居のやり方。松本さんが、その辺をどう思っているのか聞こうと思っているのだけど。

――(松本)まさに最近本当に思うのです。うまいんだけど面白くない。伝わってこない。小器用っていうか。

みんなね、綺麗なの。

――(松本)そうです。だから、「文句ないでしょ、綺麗に動いていれば」みたいなところが少しあります。それは面白いアニメじゃない。力がないとすごく思う。

力がないことがある。人間も、実はそれほど綺麗に動いていないですよ。

――(松本)今、真賀里さんからこの話が出て、やっぱりなと思いました。

だから、うちはPCに頼りすぎてない稀有な場所だと思う。アニメーションを8月17日の上映会で見てもらえば分かるけど(注7)、結構面白いものが出来つつあります。CGのように綺麗じゃないけどね。意外とアニメーションって乱暴で大雑把なのです。それでもいいところがある。それを絶対忘れてはいけないと思うのね。そこから始めて欲しい。最初から綺麗にいくところを目指さない。下手くそでいい。乱暴でいい。「思ったようにやってごらん」から始めないと、アニメーションの面白さにのめり込めないところがある。そこにのめりこむと、10年でも20年でもやりたくなる。私みたいに60年経ってまだやってる。

(注7. 2025年8月17日にルミエール府中で行われたマガリ塾アニメーション上映会。)

――情熱がキープされているんですね。

情熱というか、それしか知らないからだけど。他は何もできないから。

――(松本)でも楽しいですよね。

私は、それが伝わってこない時はリテイクをやらせる。すると良くなるの。やった本人も良くなったことでびっくりする。そこが面白い。阿佐ヶ谷を辞めたあと、ここマガリ塾は、何にもないところから始めたから。机も椅子もないし、棚も何もない。パソコンも何もないところから始めたから。すごく大変だったけど。地元で無料のものはないかと、みんなでネットで検索して。「冷蔵庫(が売りに)出てるよ!」とか。だから、マガリ塾をアニメーションできる場所にするのにとても時間かかった。阿佐ヶ谷の時は、生徒同士が喧嘩をするとか面倒なことがたくさん降りかかってきたけど、ここは本当に和やか。喧嘩もないし、面白くてね。ほっておくといつまでもやるのよ。塾生たちが今年『モーパッサンのトワーヌじいさん(TOINE)』を作ったのだけれど、いつまでも美味しそうなソーセージを作っている。ビールを飲むコップ、ずっと作ってるからとても良く出来ている。そこまで作らないでもとよいのではと思うけれど嬉しそうに作る。アニメーションする時間がなくなるけれど、徹底的に作った。いいんじゃないかと思っていた。

――今生徒さんは何人ぐらいいらっしゃるんですか?

10人。これ以上入らないです。二階は立体のための場所が二つあり、狭いの。一階はマルチ。立体の中のマルチも使うから。だから、今年も新しい人は2人しか入れてない。卒業する人もいるから。大変なのよ。

――マガリ塾では、新人で入った方には講習があるのですか?

一人はマルチで入ってる。マルチのやり方とか、ある程度カメラのこと、つまり絞りやシャッターとか、その辺のことが分かれば今のカメラは、誰でも使えますよね。昔のフィルムは、大変でした。光をどうする、何分の1にしないとこの黒さは出ない、などと。私は、和鋏でフィルムを切ってつないだりする世代を通ってきたから。最初はモノクロフィルムだった。今はパソコンの仕様についていくのが大変です。

――(松本)私はカラーでしたが、フィルムからスタートしました。

私はモノクロだったから。各家庭にカラーテレビは何パーセント普及してるかというのが、CMやる場合のいつもの話題。赤をどうするか。今50%だから赤はカラーの感じでいいんじゃないかとか。モノクロが多くて10%の時はモノクロのトーンでいったほうがいいとか。カメラマンはとても苦労していました。

――(松本)私たちは画角が3対4から16対9の変化がありましたが、そのときの苦労のレベルではないですよね。

東現とかイマジカから映像がかえってくると、フィルムを一コマずつ点検していましたね。

――(松本)劇的に変わりますよね。撮影が終わってからラッシュまで時間があって、ラッシュをみんなで見るというのは良かったです。

みんなでラッシュ見て、うまくいったら飲みたくなりますね。その頃はみんなお金がなく電車だから、飲んで良いみたいな感じで。面白かった。

――(松本)編集もちゃんと試写があるし、そういう「儀式」があるのがよかったです。今はみんながパソコンでやって送って終わりみたいですけれど。

それと現場の緊張感。今はスポンサーが出張ってくるようになったでしょう。電通などのプロデューサーが、言葉を橋渡しするだけです。私がやっていた頃は、プロデューサーと監督の力がまだあった。だから、CMがおもしろかった。一番面白い頃でお金もがガンガン入ってくる頃でした。今度はこの路線やろうかという話が、CMの打ち合わせで出る。私は日本天然色映画株式会社(注8)からやっていて、カメラマンが「眞賀里ちゃん、こういう動きはどう」と平気で言っていた。ブレーンストーミングを全員が話すような習慣のあるプロダクションだった。このようなCM会社は少なかった。その中で早川さんは特別だった。彼の演出の作品は面白かった。あの頃はこま撮りが好きだった。

(注8.日本天然色映画株式会社は、広告制作プロダクション。略称は日天。現在は株式会社ソーダコミュニケーション。)

――(松本)早川さんはものづくりが好きだから。JR東海『エクスプレス』シリーズを作っている監督です。“クリエイティブ”が好きな人です。

スコッチテープのCMで男と女の人形がいて、男の人形は今までどおりラテックスで作ったのけれど、女の人形は別だった。亡くなったイラストレーターの田畑精一さんが、ランキンの『ピノキオ』の仕事をやってる時に、ゴリラが出てくる話があった。その時に、ゴリラが胸を叩くのに「眞賀里さん、ここラテックスじゃダメだよ。」と発泡ゴムを使うと言い出した。彼は京都大の理学部卒だからその知識があり、やり始めたら凝ってしまって。どこかの化学会社に行って素材を取り寄せたりして、とうとう発泡のものを研究しちゃった。ゴリラの胸だけのために初めてそれを作ったの。それが面白くて、スコッチテープのCMの女の人形は、早川さんが田畑さんに相談したもの。だから、日本のテレビ業界で発砲ゴムの人形が初めて使われたのは早川さんのスコッチテープのCMのときだった。円谷(プロ)の怪獣でも使われていませんでした。

ところで、TYOを作ったときは、吉田さんと早川さんと誰だっけ。

――(松本)ディレクターは、その2人です。

六本木のお墓の向こうの当たりにTYOを作ったよね。そこはよく通って行っていました。行く途中に六本木食堂があった。

――(松本)昔はCM制作に時間もありましたよね。準備をしたり、実験したりする時間があった。今は企画があって、納品までの期日が短いから、いろいろ試したりできないんですね。コンテがあって、スケジュールはパパっと決めて。昔は新しい発泡でやってみよう?とか余裕があった。

何かしてみようっていう余裕があった。プロデューサーがメインのプロダクションと、監督がメインのプロダクションというのは割とはっきり区別されています。

――(松本)うちTYOは完全にディレクターが強い会社ですね。吉田と早川。

TYOがそうですし、李泰栄が入ったところも監督が強いところで、CMの打ち合わせがおもしろかった。多くは監督がとんがってるでしょう。すごくわがままですし、なんだかんだって言うのがとても面白い。私は、CMの打合せが一番好きだった。勝手なことを言うのがね。ありえないようなことを叫ぶときもありますよね。それが面白くて。私には勉強になっていました。

――(松本)私はそれを聞いて泡を吹く(笑)

可哀そうに、やらなきゃいけなかったのですね。

――(松本)大人たちが大変なことを言っていて、どうしたらできるか分からないけど、どうにかしなくてはいけないから、右往左往していろんな人のとこに歩いて、教えてもらいにまわって。でもすごく楽しかったです。

お弁当を残しても叱られるしね。

――(松本)足らないともっと叱られる。

残すと、お前なんなんだ、と叱られるしね。

――(松本)今だとちょっと元気がないと鬱になっちゃうとか言うけれど、「凹んでんじゃねーよ」などと言われて終わりでした。

パワハラはたくさんあったから。「このやろう、バカヤロウ」などと。

――(松本)あの頃パワハラとかセクハラという言葉があったならば、上司は全員いなくなってますね。

みんな何かやるっていうのが好きだったから。美術系の学生がコンテを描きはじめてからは一気にCMが面白くなくなった気がします。その前は字コンテがありました。コンテの枠の中に字が書いてあるもの。CMディレクターで優秀な川崎徹さん(注9)などは字コンテでした。

(注9. 川崎徹はCMディレクター。富士フィルムのフジカラープリントのCM「美しい人はより美しく、そうでない方は、それなりに・・」(岸本加世子、樹木希林)などで有名。)

川崎徹さんはとても編集も早いし、字コンテには、たまに丸と三角で描いてくる。「三角のこの人はこれだよね」と聞いてもいい雰囲気がある。美術出の学生たちがスポンサー用にまとまったコンテ書きはじめてからは、なんだか勢いがない絵コンテになった。監督が描く絵コンテのほうが面白いです。何をやりたいか分かるから。形だけ整えちゃだめですよ。

――(松本)賛成です。

賛成でも、もう言えないでしょう。

この前アニメーターの上野啓太君、高野さん、小川さんが来て「こんな感じの動きにしてください」みたいな注文をもらうことがあると聞きました。簡単なアニメーションの場合には、そこの会社の女の子達に芝居させてそれを撮って参考映像として渡される、と。「失礼な注文が来るんだね」と私は怒ったのです。

――(松本)たとえば、吉永小百合みたいな大物にそれを見せるということですよね。

その通り。役者に「このように芝居してください」という注文を出すプロダクションはないですよね。役者の個性を大切にしてるから。アニメーターも個性の職業です。それぞれこまの使い方がある。私のこまの使い方は、高野さんや上野さんあたりの人たちに多く受け継がれてるし、そうではないところもは彼らのこまの使い方をしてみせていると思う。それを、下手な事務員がやった芝居を見せられて。そういう世の中は間違ってる。私は早くみんな監督になれって言っていたのですけどね。私が育てた人たちはみな図々しくなくて、「私が私が!」と言う人は一人もいない。

――(松本)そう言われたらそうかもしれないです。

すぐに自分で仕事を取ってきて、みんなを集めてやろうという人は一人もいない。むしろアニメーションをしてるのが嬉しくてしょうがないという人たちです。

――(松本)それは良いような悪いようなことですね。

悪いと思う。

――(松本)楽しいし。皆さん上手だし、とても素敵ですけれど。

みんな好きは好きですね。

――(松本)でも、アニメが好きで楽しいと思っている人をたくさん輩出するのも宝ですよね。

でもそれは使われる側の人間を作ってることになります。だから、一人か二人でも、みんなを集めてこんな作品やろうか、というのをやってくれないかな、と思っています。

――(松本)でも、そういう魂はみんなありますね。上野さん、小川翔大さんも。

もう自分で作品作ったりしてるからね。

――(松本)そういうの人たちをもっと応援したいなと思います。

芳一のアニメーションは、合わなかった。いろんなことをやろうと思いすぎたこともあって。だから、完成は楽しみにしておいてもらいたいです。もう少し人を採りたいと思っても、このスタジオは一般の家だから床が軟だから採れない。最初はなぜこんなに画面が揺れるのかと思っていたのだけど、歩くと揺れていた。それから、インチ板を買ってきて入れて、カメラとセットはそれにして、そこでアニメーションしたら、みんな壁際に座って「はーい一コマ」という感じで撮影した。

――眞賀里さんの作品『くまの子ウーフ』(1983)について、制作のきっかけをうかがってもいいでしょうか?

子どもというのは、何で笑ったかが分からないうちに次のことに刺激されてしまう、みたいなことがある。要は、右脳が育っていない。右脳と左脳はバランスよく育たないといけないという思いがあった。『くまの子ウーフ』(注10)の絵本をみて、好きと思ったのです。「僕おしっこでできてるのかな?」と思うなんて、なんて可愛いんだろう!と思いました。お金が全くないときに作ったのです。まだフィルムの頃で、CMやってるときに「みんな私に残ったフィルムをちょうだい」と言ったら、たくさんフィルムが集まった。そのフィルムで作ったの。スタジオがなくて。自分のところと、野原のシーンは持永さんが自分で作品作るために作ってたスタジオがあって、そこを借りて作ったのです。

(注10. 原作『くまの子ウーフ』(1969-2001)は、作・神沢利子、絵・井上洋介による児童文学。世界各国に翻訳され、教科書にも掲載された。)

――最後に、こま撮りアニメーションを作りたいと思っている、高校生や大学生などの若い世代に対してメッセージをいただけますか?

とりあえず、私は「お話しを読め」と言っています。アニメーションが好きだからといってもアニメーションだけではなく、映画だったら名作の映画を観る、小説も名作の話を読め、と。とりあえずお話はいっぱい読んで、主人公になっていっぱい人生を経験するように、全然違うから、と。

――眞賀里さんがお好きな小説や映画には、どんなものがあるのですか?

私がここへ来た子へ読むようにというのは、モーパッサン短編集。それと『今昔物語』。『今昔』はネタの宝庫です。『今昔』で6、7本作ってる。阿佐ヶ谷のときも読ませて作った。モーパッサンの短編は、とても人間が生々しい。『脂肪の塊』もそうだし。人間が全部生なのです。もちろんO.ヘンリーなども好きですし、短編集はみんな好き。面白いし、ネタになります。しかし、基本として『今昔物語』は1度、目を通すといい。『今昔』を世の中にもう1回復活させたのは芥川龍之介だから。『今昔物語』がそれまですっかり忘れ去られているときに、『鼻』『偸盗』『蜘蛛の糸』『芋粥』など、彼は『今昔物語』からインスパイアされて色々な作品を書いて、みんなが『今昔』に注目した。『今昔』は読みやすい本でもいいから、暇なときにチラチラっと読んでほしい。ひと作品3ページのもあるし5ページもあるし、6、7ページのもあるし、絶対面白い。

あとは人を見ることでしょう。人に興味を持つこと。今、人に興味を持つこととか、生のものに触れることがなくなっているでしょう。特に子供たちは。みんなが子供の頃、お芝居をしに劇団が学校に来てくれてなかった? 生のお芝居見るという経験をさせたいです。文楽のように、人形文化が日本の中にあるはずなのに、人形は子供のものとしてしまうなど、人形に対する考え方がとても低くなっています。チェコやイギリスでは、人形は大人が観てとても喜ぶものですし、街頭で操り人形をやってるのを大人が観てゲラゲラ笑ってるでしょう。だから、アニメーションも面白がってくれる。あの文化が日本にはない。日本の場合は、人形は子供のものだという大人ぶった人が多い。文楽などは何千円も取らないで500円ぐらいで小学生にいっぱい見せたらと思っているのですけどね。

――文楽は、修学旅行で見るみたいな、そういうお堅いものになってますからね。

授業で1回は見る、能狂言は1回見に行くとかね。そういうものではないですよね。今、歌舞伎はみんなの中に入り込もうかなと思って、いろんな歌舞伎をやっていますよね。中村勘三郎さんがねずみ小僧をやってみたりとか、面白いです。野田秀樹演出による勘三郎の「ねずみ小僧」は、ばかばかしくて、みんなの中に本当に降りてきてる。そういうものを子供たちみんなが見れるといい。こういうことに資金を補助したらと思うのだけどね。パワハラ、セクハラ関連などで、すぐに規制が作られますが、問題なのは、それをやる人の道徳心や哲学でしょう。哲学というのは、どう生きるか、ものの価値をどう考えるかということですよね。その部分の教育を全然しないでやたら規制がある、こうやったらどういう罪があるっていうところを、そればっかり作っていますよね。

――当たり障りのない会話でコミュニケーションが難しくなりましたね。

人とのつながりがないほうが安全に暮らせるようになっている。でも、それではだめ。人と関わらないと成長しない。子供も同じ。子供同士が喧嘩しない理解できない。ケガをしないと、平気で刃物で人を刺すようになってしまう。転んだら、怪我したら、血が出たら痛いですよね。そういうことを全く知らない子が多いでしょう。刃物で刺す事件が今とても多いですよね。

――そうですね。痛い経験や悲しい経験を親は子どもになるべくさせないようにしますからね。

うちなんかは子供が膝小僧とかあちこち怪我だらけでした。お医者さんに「また君か」って言われてた。大きい怪我はさせないように気をつけたけど。

――お子さんは、アニメーションのお仕事されているのですか?

私のようなしんどい仕事はやらないと言っています。もう少し人形アニメーションが一般的になってくれればと思う。今アニメーターの数は、ドローイングと比べたら1万人中10人ぐらいの感じですよね。だから、すごく「匂い」がするようなアニメーションに出会いたいです。CGが使われるようになってからは、多くはとても綺麗なのだけれど、時々「匂い」がするようなアニメーションがある。

――「匂い」という表現はいいですね。

人間の匂い。

――感覚的にとても分かります。

最初にタンクから始めると、キャラクターの重さが分からない。みな上手にやってるけれど。手でやった場合はキャラクターの重さが分かる。そうすると、持ち上げるときの手の動きで持ち上がり、足一本あげなきゃいけない。でも、自分がやらないと、キャラクターに対するつながりがない。自分と人形は他人ではなく、自分自身なの。キャラクターの体重、この子の癖、こうやったら綺麗には動かない。この子は、こっちの動きがうまい。右手はとても綺麗に動くけど、左手はちょっと下手だな、みたいなことが人形によってある。人形の個性がある。それはやってるうちに分かってくる。

CGではなく人間が作るから、そのとき関節を使うか糸ヒューズを使うかで、そのときのキャラクターの出来不出来がある。右足が2ミリ長いとかそういうのもある。その動きをして、それが自分で分かるのよ、触っているうちに。だから面白い。みんながやっているの見ると、最初無表情だったキャラクターが、だんだん表情持ってくる。動かせば動かすほど表情が出てくる。それは面白い。なんかいい顔になってこない?みたいなこと。

――それは楽しそうですね。

それが分かってくると、動かすのが楽しみになってくる。塾生たちは今そういう経験をしている。自分の中にキャラクターが生きてくる。そうなると面白いの。15秒のCMでは5秒しか動きがないということがありますが、その5秒のための人形は2、3週間かけて出来ている。5秒しか命ない。どういうふうにしてあげようかと思うでしょう。どうやったら見てもらえるのか、どうやって、みんなに可愛いと思ってもらえるのか、覚えてもらえるのかーーやっぱり一生懸命考えるわけですね。だから、もし私のCMが面白いと思ってもらえたとしたら、そういう思い入れがそれぞれの人形にあったからかもしれない。

――コンタックの人形とか大好きです。

あれはね、もっと面白くできたのに、と思っています。監督がアニメーションを好きだったら。4日か5日かかるというスケジュールを、私がやると2日で終わる。私はものすごくイメージしていくため、早いのです。当然モニターなどは見てる暇はない。目の前で見ているのになぜモニターで見るのかしら。細かい動きなどはモニターでは見えない。物で動かしたこの手のほうが分かる。みんなが偉いなあと本気で思うのは、モニターで、動いているか動いていなかが分かるところ。みんな目がいいなと思う。良いモニターを買っているか、大きいモニターで見ているのでしょうね。目が疲れるし、根気も要るでしょうね。

――ここに来ている方というのは、眞賀里さんの作品を見て、いらっしゃった方なのですか?

アニメーション好きだとは言ってるけど、あまり深くは聞いていないです。クレイアニメーションは、造形力がものすごく必要。ヤン・シュヴァンクマイエルの『不毛な会話』(1982)などありますが、粘土であの造形力を持てる人は一般にはいないでしょう。造形力のある人は粘土が好きです。一方、造形力がなくてもアニメーションが好きな人はいます。私はこれまで多くのアニメーションワークショップをやってきただけど――何かを作らせて遊ばせて、自分で作ったものをアニメーションするんだけど――絵画教室みたいになってしまうのです。動かしたらどれほど面白いかを教えることがアニメーションのワークショップなのだと、思いはじめています。

うちで、1週間で狂言を1作品作り上げるというワークショップやったことがあります。そのとき5人が集まって、その後もその子たちは何回か来て、そのときにはアニメーションをさせています。1コマ撮りで動かしてみようとか。先日は、2コマ以上使って、はさみとかいろんなものを置いて、動くこと、攻撃すること、逃げることなど、自分でテーマを決めてアニメーションをさせたら、面白がって、また上手でした。

私は絵が下手だし、造形力もないです。好きなのは芝居することと、演技をさせること。芝居をさせたいとか、演技したいとか、面白がれるとか、そういう子は立体アニメーションに向いてる。だから、ワークショップも立体に視点を置こうかなと思い返している。動かすことは演技ですね。鋏だったら閉じたり開いたりすることで、どれほどの力が出るのか。動かしたことの表現力というのが面白いわけです。動くことの面白さを教えるのが、もしかしたらアニメーションのワークショップかなと思ってる。

どうにかして立体アニメーションというのがもうちょっと広まってほしいと思っています。

――(松本)こま撮りは面白いと思います。盛り上がっていますし。2年ほど前に高野さんから「自分がこま撮りだけで生活できる日が来ると思わなかった」と言われました。

今はみんながそれを知ってるからね。NHKに行ってる安田さんという男性は、自宅が代々木上原の近辺、NHKのそばにあるのですが、その人は今アニメーションスタジオ作りたいと思っている。だから「早くアニメーションスタジオを作りなさい」と言ってる。とても立派なカメラの脚が阿佐ヶ谷に置いてあるので、あれを持っていってやりなさいって言っている。

――(松本)そうなのですね。ドワーフの外にも面白い人がたくさんいます。

昔は岡本さん、川本さんとか、みんなでよく遊んでいました。9人乗りのバスで岩手にほやを食べに行く会や、京都に壬生狂言を見に行った。それをきっかけに、川本さんは『花折り』(1968)を作ったのです。その頃、及川功一さんや安藤映子さんなど、みんなは仕事がないから、ワイワイ言ってつるんで遊んでたの。新宿の何丁目かに、みんながよく行く飲み屋があったり。そこに行けば誰かがいるみたいなところやバーで飲んだりとか。よく遊んでいました。川本さんはお酒が飲めない。岡本さんはタバコを吸わない。だから、あの2人が喧嘩するのをみんながワイワイ割って入って、盛り上がっていた。

持永さんの話ですが、フィルムが燃えなかったらもっと作品を作っていたかもしれないことは――松永さんも悔しかったと思う。結局とても暖かく受け入れてくれる中国に行き、しばらく心と体を治した。あの人が車椅子になってから、みんなで中国に遊びに行きました。せなけいこ(注11)さんと保坂さん、私はすごく仲良くて飲み友達だったから。せなさんの娘さんや外国の人もいて、大勢で遊びに行った。持永さんの車椅子は私が押して。持永さんから「車いす押すのがうまいね」っていわれて、私は「持永さんに褒められたの2度目だよ」って言ったのです。すると、「1度目は?」と尋ねるので、「『ピノキオ』で私が初めてアニメーションして、持永さんがピノキオ、私がクリケットやったときに、「上手いね」って言われたとき。それ以来、2度目だからね」って言って大笑いしました。彼はあまり褒めない人でした。

(注11. せなけいこ(1931-2024)は、絵本作家。『いやだいやだの本』シリーズでデビュー。その中の有名な「ねないこだれだ」(福音館書店、1969)のおばけの絵も手掛けた。)

――『赤鼻のトナカイ』も北米で人気ですが、それに関して持永さんは何かおっしゃっていましたか?

何も言っていません。『Monster Party』だけは、「この作品は日本人がやるべきじゃないし、日本の若者にやらせたくない」と言ってましたね。

――残念ながらお時間が来てしまいました。本日はとても貴重なお話をありがとうございました。