DoCK 映像リサーチセンター

レポート② 基調講演:映像の未来を創る人を創る—国際的な視座からの提言

分野横断ワークショップ・講義
2026.10.19

DoCK キックオフ・シンポジウム「<共創>的な知の開発拠点に向けて」。①に続いて本レポートでは、リピット水田堯氏による基調講演の様子をお届けする。講演のテーマは「映像の未来を創る人を創る—国際的な視座からの提言」。約40分間の講演と、20分のディスカッションで行われた。リピット水田氏は、「創る人を創る」という言葉そのものに問題提起をし、映像というメディアの起源から現代のAIを用いた創作まで、問題を結びつける。このAI時代において、人はいかに作品を「創ること」ができるのか。動くもの、人間の主体性、欲望、壊すこと…さまざまなキーワードとともに展開され、示唆に富んだ時間となった。

クリエイティビティの起源はどこにあるか? ラスコーと動物、物語

リピット水田氏は初めに、こう問いを投げかけた。「創る人を最初に創ったのは誰か? その教育は一体どこから始めるのか?」そして「どこから人間のクリエイティビティの起源が始まるのだろう?」と続けた。

先ず例に出したのは、2万年前に創られたラスコー洞窟の壁画だ。遠近法や壁の質感を用いて、空間を包み込むように描かれている。それらの絵は「動物が動いているように見える」のだという。「非常にcomplex(複雑)な、細かいアニメーションのロジックなどを、もうすでに誰かが理解していた」とリピット水田氏は指摘する。さらに壁画内の「井戸の絵」においては、牛のような動物が人間に矢を射られ倒れているその場面が、非常に物語的であるという。「この場面が2万年前に映っているということは、もうすでに、ものを描(えが)く、ものを反映すると同時に、ものを語る――物語というものがもう含まれているのではないかとつくづく思います」と語る。

ラスコー洞窟の壁画「井戸の絵(井戸の場面)」。絵は洞窟奥にある井戸状の空間の壁に描かれている

映画の源流――「動くもの」と「主体性」

ラスコーの例に続けて、映像の登場以前(プレシネマ)、そして登場初期の作品が紹介された。まず、動く馬の連続写真を撮り続けたエドワード・マイブリッジ[*1]、そしてクロノフォトグラフィ[*2] を考案したエティエンヌ=ジュール・マレー[*3] を例に挙げ、彼らが被写体に収めたものは動物=すなわち「動くもの」であることから、ラスコーとの連関性を結びつけた。「動物・動くもの=アニマル(animal)→アニメーション(animation)という繋がりが、(映画という)メディウムが完成されるずっと前に成り立っていた」と言及する。

さらにはリュミエール兄弟のシネマトグラフ[*4] に話が及び、ラスコー、プレシネマ、そしてシネマトグラフを結ぶ視座が提言される。キネマの語源(kinematos =運動)に触れ、「基本的にシネマトグラフ、シネマというのは何かが動く、動いていくことによって作られるメディウムとして考えていいのではないかと思うんです」と、映画の源流、あるいはその本質が「動くもの」であると指摘した。

さらにこの「動くもの」は、映像の初期作品にも展開される。リピット水田氏は4つの初期作品を例に挙げた。ルミエール兄弟『L'Arrivée d'un train en gare de La Ciotat』(1896)、ジェームズ・ウィリアムソン『The Big Swallow』(1901)、ジョルジュ・メリエス『Le Voyage dans la lune』(1902)、エドウィン・S・ポーター『The Great Train Robbery』(1903)である。

この4作品の共通点は、「どこかへ動く、自分に向いて動いてくる、または身体の中に入り込む、宇宙へ出て行く、地球から離れる。拳銃が自分に向けられて、観客が瞬間的に撃たれる…。その『実感』を経験する」ことであるという。さらにこう続く。「映画は単に、見えるものを記録するというだけではなく、見えるもの/見えないものというのが同時に重なっていると考えていいのではないか。この(初期)映画が表現するものは一種の『主体性』と言っていいのではないかと思います。」

*1: エドワード・マイブリッジ(1830–1904)。動物や人間の動きを詳細に記録する連続写真の撮影を行った。 *2: 一枚の原板上に多重露光することで軌跡を捉える手法。 *3: エティエンヌ=ジュール・マレー(1830–1904)は医学者・生理学者であった。肉眼では捉えきれない運動を連続写真によって視覚的に解析した。 *4: 1895年にリュミエール兄弟が発明した映画の映写機。「運動」kinematosと、「記録」を意味するgraphein を組み合わせた言葉。

リピット水田堯(南カリフォルニア大学 比較文学・東アジア言語文化教授)

AIへの肌感――主体性のありかの変化

そして論点は、テクノロジーの問題へとつながっていく。映画は様々な分野や技術・産業をもとに誕生したことを踏まえた上で、テクノロジーの更新とともに何度も「終わり」といわれてきた映画史的観点に言及した。「(映画は)何度も生き残っている一つのメディウムであって、これはテクノロジーが変わっていくことによって、またいろんな見方が変わってくる」と述べ、最終的にAIへの問いに辿り着く。初期映画の4作品は、人間の本能的な欲望や他者との関係性などを多様な形で表現していた。あらゆる欲望やリソースを元に映画創作は行われるが、AIを用いた創作は、そのあり方がこれまでと異なると指摘する。

「AI を利用してクリエイティブな作業をするというのは、閉じ込められたクローズドシステム、すでにデータ化されているものから引き出す形になって。今の若い世代が気づいているのは、自分たちが作ったものが外部のデータ化されてしまう(ということ)。創る人が創られている、使う人が使われているという、その危険性を非常に、勘で意識しているのではないか」という。自分の感性や作品すらデータとして一般化され処理・活用されることにより、もはや〝自分〟すら作品として生成されてしまうのではないか。そういった人間の主体性の変化と危機意識に関する現状を見つめた。講演のまとめとして、リピット水田氏はこう語る。

「創る/創られる、そして使う/使われるという、その微妙な関係を考えなければ、創る人は創れないのではないかと思いますし、やっぱり創る人を創るには、ある程度ものを『壊す人』も創れなきゃいけないのではないかと思います。」

ディスカッション:教育と業界、教育とAI

講演ののち、短い時間でディスカッションが展開された。リピット水田氏が所属する南カリフォルニア大学[*5](以下USC)について、教育と映画業界の結びつきのあり方について問われると、業界からは口を揃えて同様の意見が出るという。「技術は教えなくていいと。会社に入社してから技術を学ぶことは誰でもできる。ただ、感性とか世界観みたいなものは学んでおいてもらわないと。映画の場合、幅広く、歴史、哲学、文学、そういったものを学んで、世界観を創ることが僕ら(教育)側に責任がある」と語った。こうした教育のあり方が、業界からも頼られる基盤になるという。

*5: 南カリフォルニア大学映画芸術学部は約18,000人の卒業生を輩出し、ジョージ・ルーカス、ロバート・ゼメキスをはじめ、名だたる映画監督、プロデューサー、技術者らが映像業界で活躍している。現学部長は映画プロデューサーのエリザベス・M・デイリー。

ディスカッションの様子。左から、諏訪敦彦、リピット水田堯、岡本美津子

またAI時代の創作について、リピット水田氏は改めて、「丁寧に、美しくものを壊していくのはすごく大切だと思います」と述べ、すでに存在するリソースを用いるAIに対し、人がそもそも壊すことの重要性を語った。これに対し、ディスカッションボードの諏訪敦彦教授も応答した。「壊さないと、クリエーションではなくて、再生産になってしまう。そのサイクルから抜け出せない。初期映画で『人の口の中に入ってしまいたい』というのは、これは欲望なのであって。それが情報の操作によって生まれるわけではない」と指摘した。

その上で、リピット水田氏は最後にこう重ねた。「AI を受け入れないわけにはならないし、やっぱり関わらなきゃいけない。一つの道具じゃ収まらないと思うんです。一つの現象だと思いますね。(中略)クリティカルに AI と関係を持つことがすごく大切。それはやっぱり大学教育側の責任だと思います。」

文:東 彩織、 撮影:山本大輔(DoCK)

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基調講演:映像の未来を創る人を創る—国際的な視座からの提言 日時:2026年7月12日(日)14:20 -15:00 会場:国立映画アーカイブ 小ホール 登壇者:リピット水田堯(南カリフォルニア大学 (比較文学・東アジア言語文化教授))

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