DoCK 映像リサーチセンター

レポート③ クリエイター・クロストーク:アニメーション×映画−越境と<共創>

分野横断会議・シンポジウム
2026.10.19

DoCKキックオフシンポジウム、レポート3本目は、クリエイター・クロストーク「アニメーション×映画−越境と<共創>」をお届けする。モデレーターは映像研究科教授の諏訪敦彦。登壇したのは、石川慶氏(映画監督)、四宮義俊氏(美術家・日本画家)監督、矢野ほなみ氏(アニメーション作家・映画監督)の3名。現場の第一線で活躍する監督らが、「国際的な視座」と「共創知」をテーマに、それぞれの経験と、現場での様々な越境の瞬間について語り合った。

国際的とは何か? 3人のクリエイターそれぞれの経験から

DoCKのプログラムは国際的な内容を展開するが、そもそも「国際的」というのは一体どういうことか。まずは諏訪教授からの投げかけを発端に、各々の海外経験が語られた。

左から:諏訪敦彦、矢野ほなみ、四宮義俊、石川慶

映画『ある男』『遠い山なみの光』などで知られる石川氏は、約20年前にポーランドの国立映画大学へ渡った。その頃の状況をこう語る。「戦略的に外に出たかっていわれると、全然そんなことはなくて。自分が海外に出た時は20年前ぐらいで、DoCKみたいなサポートする機関もなければ、超就職氷河期で。」そして日本で自主制作映画を創るのではなく、「半ば押し出されるように、外に目を向けてみたらまただいぶ変わるなって。そういう感じで飛び出していった」のだという。

長編アニメーション『花緑青が明ける日に』でベルリン国際映画祭コンペティション部門に選出された四宮氏は、海外映画祭での経験を語った。「どこの映画祭に行っても AI の話はされました。国をまたいでも関係なく出る質問で、みんなが持っている関心事なんだなと思う」と述べた一方で、映画祭ごとに雰囲気は大きく異なったという。ベルリン映画祭のコンペティションでは、正装で厳格な雰囲気のなか、分刻みのスケジュールに追われた。一方、台湾の金馬ファンタスティック映画祭はくだけた雰囲気で手作り感があったり、アヌシー国際アニメーション映画祭の表彰式では学生たちが短パンとTシャツで壇上に上がっていたという。「(国によって)こんだけ景色が違うんだな」と感じたという。

新作『エリ』をフランスのMIYU Productionsと日仏共同製作し、カンヌ国際映画祭監督週間にも出品された矢野氏は、クィアをテーマにした作品創作の実感をこう語る。「2017年に作品を作った時は、『クィアな作品』であることや、作者と作品の関係に注目が集まりました。自分の意思とは関係なく、自分自身について明らかにされてしまう怖さもあり、作品が誰にどう届いているのか、つかみきれなかったんです」。今年のカンヌでも『エリ』と自身との関係を尋ねられたが、数多くのクィアな作品に出会うなかで、その問いの受け止め方にも変化を感じたという。

ボーダーはどこにあるか? 「共同作業」と「共創」 は同じではない

以上の3人の経験談や実感を聞いた諏訪教授は、「活動の現場において、どのようなボーダーがあり、どのようにそれを越境していくのか?」と3人に投げかけた。

まず石川氏は、ポーランドのカメラマンとの現場を例に出した。日本の商業映画とアート映画の狭間で、自身が納得する骨太な作品をいかに成立させるかを常に模索しているという。ポーランドの仲間との協働は、別の文化や作り方を現場に入れ込み、製作の幅を広げる〝武器〟になると語る。「共創って美しい言葉でもあるんだけど、裏返すと衝突じゃないですか。でもその衝突をうまく使うと、意外と対極なものが馴染んでくみたいな経験が結構あって」と語る。

石川慶(映画監督)

この言葉を受けて諏訪教授は、「共同作業」と「Co-Creation(共創)」は同じではないと整理する。DoCKのプログラムからも具体例が出た。フランス撮影監督 キャロリーヌ・シャンプティエ氏を招いての撮影実習において、一切妥協しない彼女の姿勢に共創の瞬間を垣間見たという。「これは単なる共同作業ではない。恐ろしいけど、何か違うところに行ってしまうだろう。おそらく自分も相手も何か変化を被ってしまわざるを得ない」、そんな実感があったという。

四宮氏も、「アート/エンタメ」のボーダーについて言及した。日本画を出自とする四宮氏にとっては、商業アニメーションの現場に触れた時は衝撃だったという。商業の現場では、賞や助成金を意識せず、興行として売れることを目標に邁進する。「そのあっけらかんとしたエンタメ業界に対して、足元掬われた感じはすごくあった」と語る。

ボーダーと越境のイメージを持つ−−「表面張力」と「外側」

続いて矢野氏は、ピッチ(企画プレゼンテーション)での経験に、ある種のボーダーと越境を感じると話した。作品の存在意義や創作意図を言葉にする過程の中で、都度、疑いと失敗を繰り返すという。「自分の見えない部分を置き換えていく必要がある」一方で、「『本当にこうか?』って、常にボーダーを引いて、それを超えていこうとする」作業だという。

それに対し諏訪教授は、ピッチの必要性を認めながらも、ポルトガルの映画作家、ペドロ・コスタ監督の言葉を紹介した。「自分の企画を全く知らない人に話してはならない」「それは自分の家族とか恋人にしか話せないことなんだ」と。さらに、「(本当は言い表せないという)悔いを常に残しながら、ピッチングする技術を磨いてほしい」と学生への思いも語りつつ、大学教育における越境という課題にも触れた。

矢野ほなみ(アニメーション作家・映画監督)

すると四宮氏から、今回のクロストークのハイライトのような言葉が述べられた。「僕がイメージするのは、表現っていうのは表面張力のことだと思っています。コップの中の水、ここから溢れ出るものの表面張力、そこに僕は、表現があると思ってて。」曰く、仮に大学教育というシステムがコップだとして、自分はその水の中にいるとする。どうやったら溢れ出る外側へ行けるか、表現に接続するかという考え方だ。コップの外側に、社会や他者、あるいは観客がいる。自分の表面の外側をどう規定できるか。水の中にいると分かりづらいが、表面張力の辺りまでくると、他者や外側の存在が見える瞬間が出てくる、というのだ。「自分の皮一つ外側に何かが伝わる瞬間、これが恐らく表現活動の本質的な部分で。そこを捉えるために、外側にどう向かっていくかをイメージできると面白いのかなと」と四宮氏は越境のイメージを表現した。

これらを踏まえ、諏訪教授は越境のイメージをこれまでの議論とキーワードで結んだ。「自分が変化を被り、かつ自分自身を再発見していくようなプロセスであるかどうか。越境であるのか、単なる移動であるのか。そこで起きる経験が、単なる共同作業なのか、共創なのか。」せめぎ合いのギリギリのところ、表面張力の部分で問いかけることこそが、越境へと繋がっていくのではないか、と語った。

四宮義俊(美術家・日本画家)

映像はどこに存在するか? 輸出入の不可能性

トークの終盤には映像体験そのものについても言及された。「作品というのは観客とか見る人と作り手が、それこそ常にCo-Creationする現場なのではないか」と諏訪教授は指摘する。すなわち、映像は空間的には存在せず、スクリーンがなければ、そして観客という受け取り手がいなければ存在しない。作品は、上映されるその場その場でのみ存在し、創り出されているのではないか、という問いかけだ。だとすれば、「(映画は)単なる物のように輸出したり輸入したりすることはできないのではないか」と諏訪教授は疑問を呈した。

モデレーターの諏訪敦彦(東京藝術大学大学院映像研究科映画専攻教授)

これに対し石川氏も、自身の映画でも上映地によって笑いが起きる場面がまったく異なり、「毎回、違う映画を見てるような感覚になる」と応じ、観客との共創という視点への共感を示した。加えてこう語る。「(今後)AIが何か創るかもしれないけど、それを受け取るのはまだ今のところ人間じゃないですか。そういう意味では、完全に観客のいない映画というのは多分ないけれど、その受け取り方をどうしていくのかが大事なんだろうなって。」

石川氏の言葉を受けて、諏訪教授から最後に、とあるエピソードが紹介された。諏訪教授はある時、かつて藝大で教鞭を執った黒沢清監督に「人類がいなくなった世界で、誰もいない映画館でご自身の作品がかかっていたらどうですか?」と聞いたところ、返ってきた言葉は一言、「最高です」だったという。

映像は、複数の作り手と受け手の「共創」として存在すると同時に、作品を成立させるための監督の孤独な挑戦でもある。そんな両側面も垣間見え、様々な越境の可能性が示唆されたトークとなった。

文:東 彩織、 撮影:山本大輔(DoCK)

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クリエイター・クロストーク:アニメーション×映画—越境と<共創> 日時:2026年7月12日(日)15:30 -16:30 会場:国立映画アーカイブ 小ホール 登壇者:石川慶(映画監督) 四宮義俊(美術家・日本画家) 矢野ほなみ(アニメーション作家) モデレーター:諏訪敦彦(東京藝術大学大学院映像研究科 映画専攻 教授)

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