――現在のお仕事と職種、主な内容を教えてください。
肩書きはプロデューサーです。今は「蒼きウル」という数十年来からの企画をやっています。それ以外に、弊社の音楽出版の立ち上げをやりましたので、お預かりしている楽曲の著作権の管理業務を主にやっています。
――音楽出版とは、アニメに関わった音楽に関する著作権管理のことですか?
はい。音楽著作権の管理団体の、JASRACとNexToneと委託契約をさせていただいております。一部の作品ではありますが、弊社作品の楽曲の権利をお預かりしております。事の始まりは、ガイナックス時代になります。音楽出版は通常は、テレビ局さんやレコード会社さんがされる業務なのですが、アニメ制作会社として音楽出版社業務をやる意味としては、音楽出版での利益確保の意味以上に、作品の演出としての音楽が持つ役割を重要に考えている、ということでしょうか。映像制作側で音楽出版を持つことによって、音楽に関わる姿勢が、外部から見えるようになるからか、音楽制作についての相談がしやすくなる一面があるように感じます。あとは、作品関係のイベントや宣伝、委員会各社での楽曲利用など、作品制作以外の楽曲利用についてのコントロールがしやすいですね。
以前に一緒にお仕事をさせていただいた、有名なJ-POPや歌謡曲のアーティストを多く有する、複数の音楽事務所のプロデューサーの方達から「斎藤さん、音楽出版を持っていないと、作品の音楽に対する発言権が弱くなるのは仕方ない」と言われました。専門性ということから言えばアニメ制作会社は映像の専門であって、音楽のビジネスは知らないと思われても仕方ないですよね。自分たちが音楽出版社をやっている事で、音楽を重要に考えているという姿勢を示すことができるのが大きかったです。音楽出版をやるようになって、音楽制作のクォリティーコントロールで重要なことや、楽曲に対する利益がどのようになるのか、また利益を出す難しさも分かりました。その認識を持つことで、レコード会社の方とも突っ込んだ相談や、作曲家さんとも作品演出に関しての楽曲について、密に話をさせて頂けるようになりました。
――おっしゃる通り、音楽の演出って本当に大事ですよね。台詞がないところでも音楽で感情を表現したり。
そうです。よく「背景音楽」と言われるので、作品にとって絵の表現の「お手伝い」的な役割に思われがちですが、作品の演出においてはビジュアルと同じレベルで本当に大事です。
――たとえば、ディズニーは音楽をとても重視していますよね。
そうですね。私は子供のときにディズニー映画のアニメ―ションと音楽のワクワク感に感激して、こんな仕事ができたらいいなって思ったのが、映像音楽を作る人になりたいって思ったくらいです。
――そうなんですね。どういったきっかけで業界に入ることになったのか、小さい頃お好きだったことのお話からうかがえますか?
昔、ディズニー映画のお話と歌と音楽を収録したディズニーランドレコードが日本コロムビアから出ていて、初めて買ってもらったのが「眠れる森の美女」でした。子供が扱える小さなレコードプレイヤーで毎日聴いていて、歌もセリフもすっかり覚えてしまいました。声の芝居に興味を持ったのもこのレコードがきっかけです。その次に大きな影響を受けたのは、NHKの「ステージ101」という音楽番組です。ビートルズやミュージカル楽曲は当時のリアルタイムで扱っていましたし、当時の日本音楽界を代表されている方で、後にアニメの楽曲も作曲するようになる東海林修さん、宮川泰さんが音楽監督をされ、また作曲されたオリジナル楽曲も取り入れて番組構成がされていました。ファッションもミニスカートにブーツなど、同時の最先端のファッションをまとい、歌って踊るショー番組でした。振り付けは日本のミュージカルの振り付けもされる、坂上道之上さんや山田卓さんが担当されていました。作曲・編曲も良くてコーラスのレベルもセンスも当時の日本のポップス界ではかなり高レベルだったのではないかと思います。
そして作曲家でさらに影響を受けたのが武満徹さんです。NHKの「未来への遺産」という番組の音楽にやられました。これまで聞いていた和声がはっきりしている曲や流れるようなメロディーや、一定のリズムを持った音楽とは全く違っていると感じました。武満徹さんの曲で、音楽の幅広さや奥深さを子供ながら感じたのだと思います。あとは、歌と音楽についての影響、という意味では、父がミュージカルのレコードを時々会社(新聞社)の資料室から借りてきてくれたのもよく聞いていました。全て小学生の頃の事です。ここで、映像と音楽の融合芸術であるミュージカルが好きになる土台が作られたとも言えますね。
――ミュージカルというのはディズニーのミュージカルですか?
最初の出会いはディズニーでしたが、その後はブロードウェイミュージカルやハリウッド映画もありました。「マイフェアレディ」、「オズの魔法使い」や、「ジーザス・クライスト・スーパースター」などです。
――――そこからアニメはどう結びついたのですか?
先ほどお話ししたNHKの「ステージ101」の司会と作曲などをやられていた、宮川泰さんが「宇宙戦艦ヤマト」をやられていて、宮川さんの作曲だからと観たヤマトからですね。子供のアニメからちょうど大人になりがちたちの世代にあったアニメが出てきたことが大きいですね。劇場映画の「ヤマト」やTVシリーズの「科学忍者隊ガッチャマン」です。そして声の芝居については、東京での学生時代に、一番最初の授業の時に、たまたま私の隣に座った同級生の二人が、私が持っていたアニメ「ルパン3世」のペンケースをめざとく見つけて話しかけてきたのが、さらにアニメに興味を深めるきっかけでした。彼女たちはある声優さんと親しくしていた事もあって、声優さんの情報に詳しく、「学校の隣のスタジオでアフレコしてるんだよ」って言われました。当時はいい時代で、アフレコスタシジオの門や建物の入り口付近で、声優さんの入り待ち出待ちが許されていたんです。確かこの頃はアニメスタジオの中の見学も、事前に申し込めば可能だった頃です。彼女たちに誘われて、授業の後、アフレコ終わりの出待ちに一緒に行きました。声優さんもとても気軽に話をしてくださいました。今では考えられないですね。
そもそもの話になりますが、父が芝居や映画、音楽好きだった事が私に大きな影響を与えていますね。3歳からピアノを習わせることも父が決めたようです。そして、中学で芝居に興味を持った私に父は、「東京に行ったら劇団に入ってもいい」と言ってくれたほどでした。今思うと、父親は戦争の経験からか、やりたい事はやった方がいい、大きな組織の中で誰かに従って働くことに対する懐疑というか抵抗感があったのかもしれません。おまけに「女なんて結局嫁に行くからつまんねえな」って酔うと時々言っていて、「嫁に行くより違うこと考えろ」みたいなことを言われてました。これはもう父の「呪い」ですね。
――それは大きいですね。
大きいですね。さらには中学生になると、家の中でも、父とはその日の出来事を話すような家族の会話というよりは、「今の日本の農業政策はどう思うか」といきなり吹っかけてきたり、学生運動とはどういうことだったのかについての議論とか、ニュースを見て、私がどう思うか、などそういうような話が家庭での父との会話って感じでした。なので、よく昭和のホームドラマとかで描かれる、食事中の家族の会話はほとんど経験したことがないですね。
――兄弟姉妹はいらっしゃいますか?
いえ、一人っ子です。ただ、父の会社は地方の新聞社で、県内各所に支局があって、父の支局時代は住まいと支局の事務所が一体になっていた支局にいた事が数年あったので、周りに常に大人が多かった中で育った時期があります。家の中に外の社会が存在していた感じです。支局時代には父の警察回りに一緒に連れてってもらったりしました。ある夜、叩き起こされて、「行くぞ」って。夜中に浜辺に上がった鯨が発見されたと警察から連絡があり、取材に行くことになり、真っ暗な浜辺に横になっている大きな鯨を見た記憶があります。
――お父様が娘さんにいろんなものを見せていたんですね。
多分そうだと思います。今となってはとても感謝していますが、世の中は「見えているもの」が全てじゃない、というのは、たぶんそこで叩き込まれた感じです。ただ、私が就職活動をしている時代は、家の宗教や、親の職業を書く欄があって、親の職業に新聞記者と書いてあると落とす会社があると言われているくらい、一般企業から嫌がられていたようです。今思えば、年功序列、組織の上下が絶対だった昭和の会社で、見えていることや上司が言っていることが全てではない事を知っている女性新入社員はいらない(笑)ということだったのかな?と思います。
―――卒業されて、一般企業に入られたんですか?
はい、私が成人の年に父がガンで亡くなったので、とりあえず自分の生活費を稼がなくてはならなくなりましたので、新潟に戻り就職活動をしました。そして、亡くなった父の同僚と、試験を受けた会社の人事担当の方が知り合いという偶然の出会いがあり、父が新聞記者だったことが利点となり、一部上場で会社全体の社員が7000人以上の乳業メーカーに就職が決まり、新潟支店に配属されました。
――――そこからどうしてアニメに繋がるのですか?
就職した頃、母の女学校時代の友人の息子さんから、私がピアノやそれ以外の鍵盤楽器や作曲をやっているという事を知って、声をかけてくれて、地元の新潟大学のアニメ研で制作していたオリジナルアニメの音楽制作を手伝うことになったんです。そのアニメ研の主催のような形で、新潟の同人誌販売イベントのガタケットで「DAICON 3オープニングアニメ」を上映することになって、上映会の受付を手伝いました。そこで、上映フィルムを持参してきた、山賀博之さんと出会いました(注1)。ネットがない頃ですが、何かしらのネットワークがあって、全国的に各地で上映会が行われていたようです。後から聞きましたが、山賀さんは新潟出身だから、新潟担当ということでフィルムを持参してきたようです。
(注1. 山賀博之は、株式会社ガイナックスの当時の代表取締役社長。新潟県新潟市出身のアニメーション監督、脚本家、プロデューサー。)
その後、山賀さんが「王立宇宙軍 オネアミスの翼」やるというのを、「アニメージュ」で知りました。私はYAMAHAがシンセを作り始めた頃にシンセサイザーをやっていて、YMOや坂本龍一さんのファンでした。その坂本龍一さんが山賀さんの初の映画の音楽をやるってすごいっ!と思いながら記事を読みました。そして、「王立」の制作が終わって、山賀さんが新潟に戻ってきた頃から、元新大アニメ研のメンバーと一緒によく話すようになったという感じですね。ファミレスでみんなで朝まで討論、みたいな感じでした。私がアニメ業界に入ったのは、アニメ業界でプロデューサーになりたいからではなく、映画館で「王立」のエンドクレジットを観ながら『私は山賀さんと絶対一緒に仕事をする』と思ったことがきっかけの全てです。その後、山賀さんと話をするようになって、「とにかく僕はいろんな分野の世界を串刺しする、ただアニメを作るということではない」というような話をしていた事をずっと覚えています。「王立」って社会との接点が強い作品だと思います。私はそういう作品を作りたかったので、そんな作品を作れるのは、どう見ても山賀さんしかいないと思ったんです。「アニメ」をつくるというと、いわゆる『絵』をやりたいと思う人の方が多いと思われがちなのですが、私は作品が社会にどう存在するか、どう影響を与えるものかという視点が、自分が作りたいと思う作品には重要でした。だた、その作品とって、自分が何が出来るのかは具体的にわかっていませんでした。なので、山賀さんと一緒に仕事ができる確証が全くない時期でも、次の山賀さんの映画のために自分は何ができるか、何を得ておくと良いのかを考えて、とにかくやれることをやる、読める本は読む、これと思う人と出会う、という活動を続けていました。
――乳業メーカーにまだ勤めてらっしゃいながら、そんな活動をしていたのですか?
そうですね。ただ、働いて10年くらい経った頃から、当時の企業システムで女性が働く事の限界を感じ、アニメに行けないのであれば、山賀さんとは別に、尊敬していた浅利慶太さんの劇団四季で経験を積めたらと思っていたのですが、その時にタイミングよく中途採用の募集があり、迷わず応募しました。そしたら書類審査に受かってしまって、あざみ野の劇団四季で浅利慶太さんや役員の方たちの役員面接を受けて、全国公演の部署のデスクに合格したことがあるんです。当時の大企業はとにかく男性が多くて、「女は・・・すべき」って始まるわけです。男性中心社会なんです。女性は早く結婚して早く辞めてほしい、という風潮が強かったです。同僚が結婚して、彼女が出産するときは、同僚の女性も含めて、彼女を会社の肩たたきで絶対にやめさせない、隙は見せないと、かなりの意地で彼女の仕事も引き受けて、行動で抵抗した事もありました。ただ、そんな事で会社は変わらない。このままのキャリアでは山賀さんとも一緒に仕事ができる日は来ないとも思っていましたので、自分の環境を変えたかったんです。でも、予想以上に母からの引き止め作戦が入りました。そして、今思えばありがたいことに、会社からの引き留めもありました。私がいなくなるとどれだけ困るかっていうことを言ってくれるんです。ただ、母親の抵抗が一番酷くて、とにかく「私を置いて行くのか、お前は」みたいに毎日言われて、これが一番こたえますよね。もう、思考停止になるぐらいどうしようもなかった。そこに会社からも辞めないでと。本当に文字通り泣く泣く劇団四季に行くのをやめました。山賀さんには、「僕としては演劇界を経験してもらったほうが後々いいと思うから、僕は賛成するよ」と言われたんですけど、劇団四季に行くのを諦めました。
結果としては行かなかったから今があると思います。
――母娘関係って難しいですね。
難しいですね。結局私も悪いんですよ。父親が死んで、母親も心細いだろうからって、母思いの良い子にならなければと考えていました。それも自分の責任であり、自分が母をそうさせたのだなというのもあって、しょうがないと思うしかありませんでした。ただ、この事があって、当時の上司が社内で根回しをしてくれて、私を新潟から神奈川に出してくれることになり、初めての女性の転勤ということで転勤をさせてくれました。いわゆる管理職候補として転勤をする、ということにしてくれたようです。そして、当時、コーポレートアイデンティティ(CI)というのが世の中的に流行っていて、売り上げだけを追求するのではなく、会社の社会的なイメージを問い、社内の様々なシステムデザインを変えるという。だから、会社のロゴを変えるだけではなく、例えば、働き方改革や、書類の整理の仕方、会社の人間関係も女性の活躍も含めて見直すという活動を取り入れることになって、支店でのCI委員をやってと言われたんです。
――それはいつ頃でしたか?
バブルがはじけた後90年代半ば、93、4年ですね。バブルで売り上げ主義が終わり、不況に強いと言われる食品っていたため、バブルの影響は少なかったですが、それでも社会全体の中での会社の存在意義や、会社の活動として次の目標を考えなくてはならなくなった頃です。
でも、そのCI活動の中で女性の活躍という事については、表立った女性の働き方改革が検討されることがなかったんです。男性中心の会社理論が中心でした。で、「今後CIの中で女性の会社の中でのキャリア形成や登用をどう考えるのかが、会社の将来にとってはすごく重要だと思う」と発言をしたんです。でも、賃金をはじめ、男性優位の社内評価システムの再検討が見直されるどころか、女性の働き方について取り上げられる事さえなく、会社側からの明確な返答は一切ありませんでした。
――90年代になってもまだそんな差別が。
ありましたね。そんな遠い過去の話ではないです。そんなこんなで乳業メーカで勤務し続けていたのですが、ある日、山賀さんが「そろそろ『蒼きウル』を動かそうと思うので、ガイナックスに来ませんか?」と声をかけてくれました。
それが1998年。で、その時も食品業界は賃金は低い方でしたが、アニメ業界はさらに賃金が低いことを知って、将来的な不安が横切り、散々悩みましたが、自分がやりたい事をやる事の方が大事!と思い、会社を辞めてガイナックスに行くことに決めました。その時の母は、山賀さんをよく知っている事もあり、「あんたがいいならいいわ」と抵抗されることはなかったです。ただ、山賀さんに「ガイナックスに行きます」と入社意思を表明した、確か1週間くらい後にガイナックスの脱税のニュースが出ました。
――「新世紀エヴァンゲリオン」が大ヒットしたあとですね。でも入社されるとお返事をされた1週間後ですか?
そうです。母から、「山賀さんの会社じゃないの?ニュースになっているよ、あんた大丈夫?」なんて言われて、朝、起こされました。その日の夜ぐらいに山賀さんから電話がかかってきて、「来てもらって大丈夫です」と言われたので不安はなかったです。それまで勤務をしていた会社も、円満退職しました。ただ、ガイナックスに行っても、脱税の件があって、「蒼きウル」のプロジェクトを進められる状態ではなくなっていて、結局「蒼きウル」本編のプロジェクトは止める事になりました。私は絵描きでもないので、当時、武田康廣さん(注2)から、「うちに来てもらってもなー」みたいなことを言われて、やることどうしようかなみたいな話をされました。武田さんも困っていたのでしょう。で。その当時、イベントから始まったガイナックスのイベント文化がなくなっているという話が出て、「よしイベントやろう」となり、「よしワンフェスに出る」、「コミケだ、申し込んで」になり、そこからはガイナックスが出展イベントのブース企画、オリジナル商品制作、ブース設営などをしていました。乳業メーカーの時に、地方や全国規模の学会のお手伝いをさせて頂いたり、クリニックの開院のお手伝いや、パンフレット作りのお手伝いをさせて頂いていたことが役に立った感じです。そしてガイナックスでは、女性だからとか、勤務時間だからとか、男女格差なんて何??という感じで仕事をさまたげる環境がなく、思う存分仕事ができる環境になりました。それはそれで、別なキツさはありましたが、仕事をやれないストレスがなくなったのはよかったです。
(注2. 武田康廣は、株式会社ガイナックスの当時の取締役。)
――ガイナックスに入ったときの職名は何でしたか?
プロデューサーです。でも、「蒼きウル」のプロジェクトが止まったので、肩書きはついていても、「あんた誰?」状態でした。その当時、山賀組のチームは何人かいたのですが、みんなで社内失業みたいな状態になりました。私なんて入社即社内失業状態でした。それぞれ、何をするかみたいな感じでした。その当時「蒼きウル」のフライトシュミレーターの企画が動いていたので、その端っこでお手伝いをしながら、アニメ以外の事業での収益を上げることをやる、という感じでした。私は自社企画のゲームやCD-ROM画集の営業に、秋葉原のゲーム販売をやっている店舗や書店に行きました。自社企画PCゲームの脱衣麻雀やタイピングソフトなどの秋葉原でのイベントも開催したりしていました。
――脱衣麻雀とは、どういうものですか?
麻雀のPCゲームです。プレイヤーである自分が勝つと、相手である作品のキャラクターを脱がせる事が出来るんです。今ではあり得ませんよね。コミケでは、キャラクターの18禁スレスレか、と思われるような絵柄のテレカも自社制作して、企業ブース出展をして販売しました。そのせいか、列整理はうまくなりました。コミケやワンフェス、当時あったキャラショーだけでなく、自社企画のファンイベント、作品上映会、SF大会、ガイナックス20周年イベントなどをやりましたね。名刺の肩書きも、商品開発になったりして、再びプロデューサーになったのは、韓国アニメーションのローカライズの時でした。
―――それはどういう活動だったのですか?
ある時、韓国で制作されたすごいアニメ映画があるという話が出て、その映画をガイナックスで輸入して、ローカライズして自社配給をすると。「ワンダフルデイズ」というアニメ映画です。韓国の南揚州総合撮影所という。韓国映画「JSA」の撮影場所としても有名な映画スタジオがあるんですが、そこにアニメ制作のために作って撮影した、実物大のバイクの模型や、3〜4m四方くらいのミニチュアの街が置かれていて、国が関わっていた大きなプロジェクトだったんです。私はその映画のローカライズのための契約、台本の翻訳・日本語台本制作進行、本編の制作データや映像データや音楽データ、フィルム・宣伝素材の輸入、音響制作進行、キャスティング、宣伝、パンフレット制作、日本語版上映フィルム制作、配給業務など、一通り担当しました。なぜ映画を輸入して自主配給までしたかというと、劇場映画である「蒼きウル」をやるなら、自分たちで劇場映画の仕組みが分かっておく必要があると。さっきお話しした音楽出版と一緒で、映画の上映までの仕組はどなっているのか、どうやったら映画をよりお客様に届けることができるのか、劇場映画としてクオリティとはどういうものなのか、何を大事にして、何を管理すべきなのかは、書籍からの知識や人からの話だけではなくて、自らが制作・お金・流通のことも含めて経験する必要があるという事です。ガイナックスは、王立以降、オリジナル劇場映画作品がないんです。
そして、韓国の音楽の権利管理団体と日本のJASRACとの関係性が今ほど確立されていなかった事もあり、またこちらも音楽業界のビジネスの仕組みについて、法的な理解が足りず予想以上の経費が音楽にかかり、世界で上映する場合には、各種著作物に関する権利を集約し、相手国で問題が起きないよう処理しておかないとならないと、この時に思い知りました。この事についても、先ほどお話をした自社で音楽出版社をもつ意味にも繋がっています。
当時は映画の入場券が紙のチケットだったので、映画館の方がもぎった半券を一枚一枚、何月何日分とわかるように、A3の紙に丁寧に貼って入場者数を管理されていて、その台紙を配給会社である私たちにご報告をいただくんです。あの時の1枚1枚の半券の重みは今でも忘れられないです。
――映画の半券が、売上の証拠として貼られていたと。
はい。それが基になって双方の取り分はいくらと計算されました。そして、この映画の配給作業を通じて、映画の教科書に書かれていない事もいろいろ学びました。コダックのフィルムの色と富士フィルムの色の違いとかは当然の事として、そこにかける乳化剤の良し悪しとか。今じゃ何の役にも立ちませんけどね。あと、Dolby Digitalの音がどうフィルムに記録され、劣化してステレオ音声に落ちる状況など、すごくいろんなことを勉強しました。新潟で上映したフィルムの音が前の上映館の映写機のせいだったらしいのですが、フィルムが傷ついてひどい音になっていたんです。で、イマジカさんに相談したら、「フィルム新しくしましょう」と言っていただき、すぐに焼き直して新潟の映画館に送ってくださるという、映画を支える方たちの上映クォリティーにかける情熱とか。ただ、上映するためのフィルム制作はかなりお金がかかったので、予算が少ない劇場映画のためには、早くデジタルになった方がいいのかもしれない、とそのとき思いました。
フィルム上映からデジタル上映という新しい技術への移管って、アニメのセルのときと同じように、新しい技術との向かい合いについて、再び体験することになりました。今ですと、AIも同じようなことが起きるだろうとは思います。新しい技術の本質は何かを見るっていうことが、どれだけ大事かを思います。
――これまでのお話だと、アニメ制作そのものとはかなり活動が違いますね。(笑)
いわゆるアニメ制作の話とはかなり違いますよね。私たちのプロジェクトがこれまで通常のアニメの制作方法では、やりたい事に達成しない事だけはわかっていて、その具体的方法を探ってきていることから、このような活動を継続してきているために、このような活動となっています。
その活動の1つとして、これまたアニメではないのですが、数年前に山賀がワーグナーのオペラの演出をやりました。「ラインの黄金」です。そこでは、私は舞台装置の設営手配や、パンフレットの制作、オリジナル商品企画・制作、衣装デザインと衣装制作をやりました。そして、アニメ監督がオペラの演出をなぜやるのか。それは劇場で映画を見ることの本当の意味とは何か、を追求する意味もありました。多くの方は特別な推し作品でもない限り、1本の映画を映画館で何十回も見るわけじゃない。映画の体験とは、映画館という劇場空間にその場でその時の映画との出逢いであって、その映画がその人の人生に影響があるかないかも含めて、唯一無二の体験が劇場にあることだと。いわゆる舞台演劇と同様ですね。この事の意味は、プロジェクトとして重要に考えています。作品との一期一会の出会いやライブ感のことです。それはお客さんにとっても、そして作品自体にとってもすごく重要だと考えています。何のために映画館に映画作品を見に行くのかという意味ですね。劇場でのライブ感をいかにお客様に体験してもらうか、そのためにアニメ映画の制作では何をやるべきなのか、これを具体的な方法論にするためにオペラをやり、これを具体的な制作方法として構築する事を、今やっているところです。
話がそれますが、私はプロデューサーという肩書って、どういく仕事を表す役職名なんだろうって思います。製作委員会で求められるプロデューサーの仕事内容は、比較的分かりやすいかもしれません。でも今の自分自身のプロデューサー像を言語化が出来ていません。劇場映画である「蒼きウル」を次の段階に乗せるために何が必要なのかというのを常に考えているだけで、そのためにやれる事は可能な限り、何でもやってきましたし、今のこれからもそれは変わらないです。ただ、そんなことをやる役職として具体的なものはないのが現状で、とりあえずプロデューサーという曖昧な役職ぐらいしかない、という感じです。
――確かに総合的な何でも屋のような、総合プロデューサー的な感じですよね。
ただ、総合プロデューサーっていうのも、また別な職種だと感じています。確かに『何でも屋』の方がしっくりくる感じですね。一つの事を深く掘り下げていく場合は、その専門家に任せた方がいいと思います。でも、ある専門的なことを、専門外の『何か』とつなげるには、つなげていくための「仕組み」が必要で、専門と専門とは、そのまま単純には繋がりにくいと思っています。例えば日本の大学では、理系と文系だけでなく、さらに学部が細かく分かれているような感じで、それを縦断させるには別のシステムや考え方が必要、という事に近いかもしれません。この仕組みを作り、実行する事が自分の役目だと思っています。そのために、ずっと試行錯誤する立場にいるのかなと。原作もののアニメ作品では、原作自体がすでに完璧に完成されている作品ですので、正直、作品的に原作者以外がやれることはほぼないです。なので、プロデューサーとしては、予算の遂行状態がどうか、現場のスケジュールは大丈夫か、権利窓口としてやるべきことは何か、お客様にどう届けるか、どう商品化ができるかくらいでしょうか。
今私がやっているオリジナル作品である「蒼きウル」のプロジェクトで、私が担当している作品の土台を作るという仕事については、やっている仕事の内容を言い表せないなあと感じていて、世間で言われているプロデューサーの肩書きは当てはまらないように感じています。
――プロデューサーは、女性に向いていると思いますか?
どういうプロデューサーのことを想定されていらっしゃるか次第だと思いますが、女性に向いているかどうかという点では、私は性別によって向いてる、向いていないは関係ないと思います。また、求められる仕事の仕方も、多分、会社単位、作品単位でも変わると感じますし、色々な立場の方の仕事内容が混同されている感じがしますので、明確な返答がしずらいのですが・・・。ただ、勢力人数から見ても、業界の集まりの男女比から見ても、女性も増えているとはいえ、アニメ業界はどちらかといえば、男性社会だとは感じています。とはいえ、男性であれ女性であれ、その作品を社会にどう見せていくのか、誰に見せていくのか、そのために諦めずに熱量を持ち続けられる人が向いているのではないかと思います。
――では、最後に、こういった業界で働きたいという若い方に対してのメッセージをお願いします。
制作会社によっても求められる人材が違うと感じています。そして、今後、今現在のアニメの企画の立て方や制作ワークフローが変わらずに続いていくとは言えない状況にあると感じています。一般の会社と違って、人の組み合わせや作品の作り方で、これまで良いと思った事が悪くもなるし、これまで悪いと思った事が良くもなったりするので、自分の正面で状況を見ていく柔軟な考え方は必要かもしれません。なので、やってみないと適合するかどうかはわからない業界だと思いますので、やりたいと思ったらやってみる、という事でしょうか。そして、自分が何を見ているのか、どこに立っているのかを感じて仕事をすること、つまりは、自分の仕事をどれだけ楽しむ事が出来るか、という事が必要だと思います。
――最近御社に入ってくる若い層、特に女性に、何か思うところはありますか?
アニメーターさんたちは専門職なので、この話の対象から省きますね。アニメ業界は、男女賃金格差がないと同時に、残業時間の格差もないと思います。とはいえ、果たして、今のアニメを取り巻く状況が。今の若い世代の女性たちにとって、いいことなのかどうかは分かりません。そして、彼女たちがアニメ業界で作品を作り続けているかどうかは、これから数年後に結果が出ると思いますが、その時に彼女たちが自分自身で地面をしっかり踏み締めて、楽しく作品を作り続けているといいなと感じています。
――本日は貴重なお話をありがとうございました。

