出典: https://dock.geidai.ac.jp/wija/creators/%e6%9c%a8%e8%88%b9%e5%9c%92%e5%ad%90/ 印刷日: 2026-10-22

木船園子さん (ご本人提供写真)

木船園子

きふねそのこ

主な所属
IKIF+、東京工芸大学、東京造形大学非常勤講師。
主な役職・肩書
取締役、アニメーション制作者、教育者
デビュー作

『CIRCLE』(1981年)監督(IKIF名義)

代表作

『阿耳曼陀羅(二)』(1986年)監督(IKIF名義)

『ドラえもん のび太のワンニャン時空伝』(2004年)オープニングCGディレクター(IKIF名義)

キーワード
#自主制作アニメーション, #CGアニメーション, #大学教育とアニメーション
関連リンク
聞き手
須川亜紀子、宮本裕子
構成
宮本裕子
編集
須川亜紀子
インタビュー日
2025年10月
インタビュー場所
東京・IKIF+スタジオ
公開日

――現在のお仕事、職種、形態を教えていただけますか。

2023年度で東京工芸大学の専任教員を定年退職しましたが、並行してIKIFというユニットでアニメーション作家を、個人作家という感じでやってきて、1997年にIKIF+という会社を発足して、今ここ(インタビュー会場)がそのスタジオですけれども、その取締役・経営者として会社の運営を行っています。また、今までお世話になってきた東京工芸大学と東京造形大学で非常勤講師を担当させていただいています。非常勤はそれぞれ週一日ぐらいですね。それ以外というと、他の大学の講評会に参加させていただく機会や、審査員をお引き受けするなどがあります。審査のお手伝いは大学と並行してやらせていただくこともありました。1年前に助成金の審査に参加していたのですが、その時の作品が出来上がってきて、上映会でその作者に直接会えたり、様々な映画祭で賞を取ったり成果や評価をもらえて活躍されていることがとても嬉しいですね。

――クリエイターとしての人材を育成するようなお仕事ですね。

そうですね。須川さんと共に携わらせていただいた文化庁の人材育成事業や、毎日映画コンクールの審査をはじめとする映画祭での経験は、私にとって非常に勉強になることばかりでした。 最初にお話をいただいた際は、私などでは非常におこがましいと感じましたが、一生懸命にアニメーション制作に励む方々を少しでも応援できるのであればと思い、務めさせていただきました。

審査委員については、男女のバランスを考慮して選定されているように感じました。私にお声がけいただいたのも、そうした背景があったからではないでしょうか。 大学教育の現場でも、やはり男女の比率は重要です。「女性の教員が退職されたら、次も女性を」といった配慮など、そのバランスを保つことは大切ですし、私自身も常に意識しています。

――教員で、女性で、かつクリエイターという方も珍しいですよね。(木船さんご自身が)貴重な人材ですね。

私の場合は「たまたま」というか、「運が良かった」と言うのが正しいのかもしれません。もともと教員を目指していたわけではなく、大学時代には教職課程すら履修していませんでした。 美大には教員免許を取得して美術教師を目指す道もありますが、当時の私は「自分には到底無理だ」と思い、検討すらしていませんでした。それが不思議な縁で、気づけば「先生」と呼ばれる立場になっていた、という感覚です。

――ゼミの教え子さんは、もうクリエイターになられていますか?

私が東京工芸大学に赴任したのが2001年で、アニメーション学科が2003年に設置され、2007年に1期生が卒業しました。彼らも今は40代を迎え、人生の大きな節目に立っています。

卒業生の進路はアニメーション業界に限らず多岐にわたりますが、家庭を持ち、子育てに励んでいる世代でもあります。特に女性の場合、キャリアの中断を余儀なくされるケースもありますが、育児をしながら制作現場で奮闘している教え子もいます。

集団作業が基本のアニメーション制作においては、育児との両立は容易ではありません。パートナーとの協力など、社会的な意識は是正されつつありますが、どうしても時間に制約が出てしまいます。私自身、かつては近くにいる親に助けられて乗り切れた面がありましたが、そうした幸運な環境がなくてもキャリアを継続できる仕組みが必要だと感じています。

――どのようなきっかけでアニメーション業界に入るに至ったかをお伺いしたいのですが、お父様(石田多実三氏)がカメラマンでいらっしゃったそうですね。どのような子供時代でしたか?

私が生まれた当時、父は日本テレビの報道や広報を担う部門(正確には別会社の形態だったようですが)の写真部に在籍していました。1964年の東京オリンピックの年に独立して「株式会社セブンフォトグラフィ」を設立しました。事務所を構えたのは、当時の日テレに近い麹町の「光ビル」という建物でした。正直、かなり年季の入ったビルでしたが(笑)、その3階が父の拠点でした。

当時5歳だった私の記憶にある父は、人の出入りはあれど基本は会社を一人で切り盛りしている姿でした。仕事の内容は、写真の現像から焼き付け、納品といった作業はもちろん、日テレ関連を含む多種多様な撮影や取材にまで及んでいました。さらには、外部のデザイナーと連携して商品カタログの編集・制作を手がけることもありました。自らシャッターを切ることもあれば、外部のカメラマンを起用してディレクションを行い、誌面のレイアウト設計まで手がけるなど、写真を軸に据えた活動を行っていました。ときどき母も経理などの事務仕事を手伝いに行っていましたので、私もよく連れていかれて、遊びの延長のような感覚で暗室に入り写真が出来ていく、フワッと出てきて定着していく過程が面白くてよく見ていました。こういった原体験が、映像やアニメーションに興味を持ったきっかけかもしれないと思います。

 私の世代は手塚治虫先生への憧れや存在が大きくて、手塚作品のマンガはもちろんTVアニメーションを浴びて育ってきましたので、自然に将来はマンガ家になりたいと思うわけです。単純に虫プロに入りたいと憧れていましたね。『ジャングル大帝』がすごく好きで、レオの絵を大量にいたずら描きしていたことがあって(最近昔の絵が出てきたのをみるとディズニークラシックアニメーションの『わんわん物語』を描いた絵が出てきてこれも刷り込まれていたかと・・・)自然と絵が好きになったというのはありますね。

親はそれに対して反対せず、好きだったらいいじゃないと放任していました。母方のほうに従妹が何人かいますが、みんな良い学校に行っていて、親は私には「絵がうまいという特技がある」「他に何もできないけど絵を描くのだけは好きなのよ」と言ってマウントを取ってましたね。好きなことに熱中している様子を見て、それを認めてくれていた両親でした。

――マンガ本はご自宅にありましたか?

欲しいと言えば大体買ってもらえたような気がします。お小遣いで良く買っていたと思いますね。親と買い物に行くと本屋さんに寄って買ってもらえることが良くあって、児童文学の本はそれで読む機会があったのと、小学校や中学校の図書館でもよく借りていました。児童向けの新約聖書、旧約聖書、ギリシャ神話や民話。『メリーポピンズ』や『クマのプーさん』などは、ディズニー映画を観る前から図書館で借りて読んでいた記憶があります。

――お好きな本は?

なんといっても『ジャングル大帝』です。『鉄腕アトム』はちょっとお兄さんお姉さん世代で、年上の従兄弟の家にあったカッパコミックス版を読んでいました。大体人の家にあるマンガをお互いシェアしていましたね。家にあった本で記憶に残っているのは『小さなスプーンおばさん』。本の装丁の絵が可愛くて本屋さんで目について買ってもらって読みました。中学生の頃にはミハエル・エンデの『モモ』、『はてしない物語』を読んで感動しました。大学生になって相方が『誰も知らない小さな国』をはじめとする佐藤さとる全集を持っていたので、読んで大好きになりました。

『ジャングル大帝』に話を戻すと、私が小学1年生の時に、日本初のカラーテレビアニメとして放送が始まりました。父が日本テレビ関連の仕事をしていたにもかかわらず、当時はまだ家にカラーテレビがなくて、白黒で見ていた記憶があります。父は独立して会社を興したばかりで資金繰りも大変だったのでしょう、両親がよく喧嘩をしていたのを覚えています。母が「お金がない」とよくこぼしていました。父は商売人というより、根っからの技術者だったのかもしれません。

狭いアパート暮らしではありましたが、好きなことはさせてもらえていたので、不思議と貧乏だと感じたことはありませんでした。そんな中、中学生の時に虫プロ商事の単行本版『火の鳥』を読んで、まさに「ガーン」と衝撃を受けたんです。内容は中学生には難解でしたが、壮大な世界観に圧倒され、マンガという表現だからこそ、大切なメッセージがスッと心に響いてきました。「こんな世界を描けるなんて凄い」と、手塚治虫先生やマンガへの憧れが一気に強まった瞬間でした。

――周りの方もアニメやマンガがお好きでしたか?

中学までは普通の公立中学だったので、共有できる友達は少なかったと思いますが、芸術系の高校に入ってからは、当然ながら周囲は好きな人ばかりでした。

高校受験の際、絵が好きだったので芸術系の学校を志望し、日大鶴ヶ丘高校の芸術コースと都立芸術高校を受験しました。両方合格しましたが、家計を考慮して都立芸術高校へ進学することに。もし日大鶴ヶ丘に行っていたら、そのまま日大芸術学部に進学していたかもしれませんね。 都立芸術高校は、駒場高校にあった保険体育科と芸術科のうち、芸術(音楽と美術)コースが独立して駒場高校の敷地に新校舎を建ててできた新しい高校でした。藝大卒の油絵の先生が担任の先生で、一般の基礎教科はもちろん学ぶのですが、「数字Ⅱ」はありませんでしたし、普通高校より学科は薄かったもしれません。その代わり美術の時間が当たり前に多く、楽しくて仕方ないけど、学力が低下していくため、普通の大学に進学する選択肢は無くなり(一般大学受験希望者は補習を受けていた記憶はありますが)、藝大、美大の予備校みたいなところでした。音楽のほうは音楽専門の高校で、(海老名)泰葉さんは同級生か一つ違いかで、文化祭でドラムを叩いてライブをしていて大活躍していたという、特殊な高校でしたね。現在ではメディア系のコースが加わって東京都立総合芸術高校という名称になって新宿区に移転しました。

――芸術高校の入試はデッサン実技でしょうか?

静物画の実技がありました。ちゃんとデッサンから勉強しなきゃいけないと、父が仕事で一緒にやってきた絵を描ける方を連れてきてくれて個人指導で美術の基礎を学びました。デッサン用の石膏像「アグリッパ」も親が買ってくれましたし、今思うと一人娘のために一生懸命応援してくれたおかげで合格することができたと思います。

高校ではデザインと美術(彫刻、日本画、油絵)にコースが分かれていて私は美術コースを選択していました。油絵を描いていました。カリキュラムはおそらく藝大を雛形として設定されていたのではないかと思います。絵が好きなので油絵を選択しましたが、高校の後半に美大受験どうするとなった際に、私の油絵の実力では藝大も私大も難しいと自分で判断して、デザインで受験することにしました。担任の先生から後で怒られましたけれど。その結果、東京造形大学(デザイン学科)ビジュアルデザインコースに進学することになりました。

高校時代に戻ると、熱狂的にマンガ・アニメを愛好している友人と仲良くなり、創刊されたばかりの「ぴあ」に載っている上映会を、二人で片っ端から観に行きました。当時は大学の文化祭をはじめとした自主上映会がとても盛んな時代で、アニメーションもよくやっていて、時間があるとひたすら観に行っていました。その当時はビデオもなく情報に飢えていたため、そういう所に行って実際に見ないとどうしようもない。その友人の家に遊びに行くとこれまたディープなマンガが揃っていたし、二人で本屋を巡って新刊のマンガ単行本を買いに行くなど、かなり影響されました。

萩尾望都先生の『トーマの心臓』、『ポーの一族』にやられてしまった世代ですが、二人でマンガのセリフを言い合って「ポーの一族ごっこ」をしたり。今思うと恥ずかしいですが、当時大学の学園祭で漫画の絵を複写してセリフを付けた映像が上映されていた時代でしたね。それらの影響を受けて、二人で何か作ろうとなり、父の8ミリカメラを持ち出してお互いの家に行ってコマ撮りアニメを作ったり、アニメ研を作ってセルアニメのまねごとグループ制作を始めたり。作り方が分からないので、東京ムービー(現・トムス・エンターテインメント)に電話して「教えてください」と突撃取材したこともありました。

――すごいですね。東京ムービーはすぐOKだったのですか?

女子高生が訪ねてくるのを珍しがられたのか、とても優しく対応してくださいました。スタジオの社屋に入らせていただき基本的な作り方を教えてもらって、3穴動画用紙、セルなどの材料も売っていただきました。足りなくなったらまた来なさいとまで声をかけていただきました。対応してくださった方のお名前を覚えておらず申し訳ないのですが感謝しかありません。

「今、大塚(康生)さんがいるから会っていけば」と案内され、ギシギシ狭い階段上がっていくとご本人がけん玉で遊んでいました。ちょうど休憩中だったのでしょうか。舞い上がってスケッチブックを差し出すと、ルパンと五エ門の絵を、さらっと描いてくれたのです。女子高生だったので優しくしてくれたのかもというのは憶測ですが、(男子高校生が行っても優しくしてくれたかもしれないのですが) とにかく優しかった印象でした。

話の中で「本当に大変だからこの仕事に就くのは止めたほうがいいよ」と言われましたが、どう見ても楽しそうに見えてしまって「大変かもしれないけれど楽しそう」が刷り込まれてしまいました。帰り際には「どうせ捨てるから」と『はじめ人間ギャートルズ』と『ガンバの冒険』のセル画と背景をセットでいただきました。今も大切に持っています。

――昔のスタジオでは使用済みセル画を破棄していたんですよね。

のちにアニメブームが到来し、スタジオに忍び込まれてセル画が盗まれるような事件が起きてから、ようやく管理が厳格になったのですよね。それ以前は保管場所もなく、資料としての価値も認められていない時代でしたから、多くが処分されていたのでしょう。

高校時代、そんな環境の中でアニメマニアの大学生たちとの繋がりができました。当時、倒産した虫プロの再建資金を集める運動があり、誰もいなくなったスタジオに残された膨大なセル画や背景画をセット販売して役立てようという計画が持ち上がったようで、友人と二人でその手伝いに加わり、日本青年館ホールで開催された「虫プロ名画祭」で販売のお手伝いもしました。その後同じ主催者による「夏休みのおくりもの」という自主上映会で『太陽の王子 ホルスの大冒険』を見て「凄い!」と衝撃を受けて。高畑勲さんや宮崎駿さんのお名前を意識したのは、その時が最初でした。

時系列が戻りますが小学生時代、世田谷区下高井戸に住んでいまして、駅の近くに東映の封切映画館がありました。今、その跡地の建物に下高井戸シネマという名画座が入っています。春休みと夏休みの「東映まんがまつり」は学校で割引券を配っていて『長靴をはいた猫』を封切り時(1969年)に観ています。前年(1968年)春の『アンデルセン物語』も観ていて、夏の『太陽の王子ホルスの大冒険』はなぜか見逃していて、翌年(1969年)春『長靴をはいた猫』、夏『空飛ぶゆうれい船』という時系列です。中でも特に『長猫』が大のお気に入りで、ソノシート付きの絵本を見つけて買ってもらうくらい大好きでした。ちなみにソノシートの音声が映画の声優さんではなくがっかりした記憶があります。

この経験も今に続く起爆剤の一つになった気がします。見逃していた『太陽の王子ホルスの大冒険』を高校生になってから見て、改めて東映動画の『白蛇伝』から始まった東映動画の長編の歴史を知りたいと資料本を買い求めたり、アニメーションについて知見を得る意識が強くなりましたね。

高校の文化祭でアニメ研の展示を企画し、東映動画に行ってスチールを借りてきて「東映動画長編アニメーションの歴史」の展示と、どこからか映写機を調達してきてフィルム上映会も行いました。当時は日比谷図書館でフィルムの貸し出しを行っていたので、そこから16ミリフィルムを借りたのだと思います。上映したのは、虫プロの『やさしいライオン』や『鉄腕アトム』(一部パートカラーの長編版)、そして自分たちで制作した8ミリ作品などです。先生にお膳立てしてもらうのではなく、自分たちがやりたいことを、まさに「好きで浮かされたように」行動していました。勉強そっちのけで一生懸命でしたね。その姿勢は、大学に入ってからも変わることはありませんでした。

高校の卒業時に「サンリオ・フィルム」が、スタッフを募集していて友人はアニメーターとして巣立っていきました。(そのスタジオで制作され公開されたのが最近テレビで放送された『チリンの鈴』で、クレジットで友人の名前を確認しました)

当時の私はアニメーションを仕事にする自信がなく、美大に進学してデザインの勉強でもすれば食べられるようになるんじゃないかという気持ちで、東京造形大のビジュアルデザイン専攻に進学しました。

――アニメーターになろう、という感じではなかったんですか?

自分は実力的にもうちょっと勉強しなきゃダメだろうなと思いましたし、美大受験が当たり前の空気だったこともあって進学を選びましたね。大学に進学して次につながる人たちと知り合えたので結果的に進学して良かったです。

――上映会ではアニメーションだけじゃなくて実写映画もご覧になったのですか?

高校生時代はアニメーションに夢中で、頻繁に実写映画も観るようになったのは大学生になってからですね。なみきたかしさん率いるアニドウが出していたアニメーション専門誌「FILM 1/24」の読者になったのは高校の終わりか大学に入ってすぐくらいだった記憶ですが、アニドウの上映会には頻繁に通っていました。杉本五郎さんのフィルムコレクションをみせていただく機会があったことは世界のアニメーションのことを知る貴重な機会でしたし、楽しみながら勉強させてもらいました。

それ以外にも、ノーマン・マクラレンをまとめて観る自主上映会や、イメージフォーラムの実験映画(当時はまだ「アンダーグラウンド・シネマ」と呼ばれていたと記憶しています)の上映会に、「アニメもあるらしい」と聞きつけては出かけていきました。そこで目にした「何でもあり」の世界には、本当に驚かされましたね。何か面白そうだと思えば、ジャンルを問わずどこへでも見に行きました。

当時の学生による上映会は、フィルムが退色してボロボロだったり、傷だらけだったりと、今では考えられないような状態も珍しくありませんでした。シネスコ(シネマスコープ)の映画を、専用のアナモフィックレンズを通さずに標準レンズで上映して、正しいアスペクト比で見られない……なんていう酷いケースもありました。それでも自主上映の盛り上がりのおかげで、お金をかけずとも数多くの作品に触れることができました。名画座やアート系の上映も学生に優しい料金設定で、若者でも映像文化を存分に享受できる時代でした。

大学に入ってから、私の入ったビジュアルデザイン(VD)専攻のマンガ愛好者が「VDマンガ集団」というマン研の母体になるものを作って、その中のアニメ好きが集まって「アニメ上映会もやろう」と活動を始めました。それが分離してアニメ研を作ることになり、私が初代部長を務めることになりました。「PAF」(プライベート・アニメーション・フェスティバル)という、選考なしで何でも上映する形式のアニメーション・フェスティバルをアニドウさん中心に開催していたので、それに向けてみんなで8ミリ作品を作ろうという流れになりましたね。

――アニメ研の名称は?

造形アニメーションクラブの略で「ZAC(ザック)」という名前でした。個々に制作したものと合わせて「ZAC作品集」として「PAF」に参加しました。大人数で作る集団制作はうまくいかず、アニメ研にいた木船徳光と二人で作るようになりました。

――そこで(パートナーの)徳光先生にお会いしたのですね。

はい。歳は同じですが彼は1浪で1年遅れて入学してきて。私が二年の時に彼は一年生で「VD漫画集団」に入ってきたのですが、そのタイミングでアニメ研を作る流れになったのです。

――アニメ研で上映したアニメは?

最初に上映したのは、カレル・ゼマンの『悪魔の発明』でした。日比谷図書館から16ミリフィルムを借りました。また、カナダ大使館のフィルムライブラリーからNFBの作品をたくさん借りてきて、手作りの簡単なパンフレットを配布して学内で上映しました。ラウル・セルヴェさんの作品もベルギー大使館で借りることができました。そういう数少ないチャンネルを使って、観られるものは観ようと活動していました。

ちょうど『スターウォーズIV 新たなる希望』の公開が大学の二年か三年でしたか。朝まで5回ほど繰り返し観られるオールナイトで『スターウォーズ』と『2001年宇宙の旅』(リバイバル)は有楽町にあったテアトル東京という劇場で観ました。『エイリアン』も同じ劇場で鑑賞しましたね。まだ70ミリフィルムが上映されていた頃です。

――最初に作られたのはセルアニメですか?

まねごとのセルアニメを作った高校時代を経て、ノーマン・マクラレンを見て影響されて、IKIFで作ってきたのは実験アニメーションでした。

アニドウでやっていたアンデパンダン形式(選考無しで全ての応募作品を上映する形式)のアニメーション上映会の「PAF」は、ロボットアニメのパロディみたいなもの、みんなにウケるノリのものも多かったのですが、造形大のアニメーションはお話がよく分からない実験的なものばかりで、ある評論家の方に「造形大は映像暴力」と言われ、それを聞いて「やった!映像暴力」と逆に喜ぶというひねくれた美大生でしたね。

でも、種々雑多な作品をジャンル分けせず、すべて均等に観ていこうという当時の上映会のスタイルは、とても良かったと思います。

庵野秀明さんたちが参加していた「DAICON FILM」も同時期でしたが、あちらも「造形大の連中が面白いことやっているな」と注目してくれていたようで、互いに存在を意識し合っていましたね。上映会はまず東京のアニドウで上映された後、同じフィルムを名古屋の「東海アニメーションサークル(TAC)」や静岡の「しあにむ」といった各地のアニメサークルが順次上映し、作品が拡散・共有されていきました。

また、全国のサークルが合同で主催する「アニメーション全国総会」というイベントもありました。旅館を貸し切って開催され、全国から集まった仲間と徹夜で語り合ったり、作品をオールナイトで流し続ける部屋があったりと、まさにアニメファンの熱気が渦巻いていた時代でした。

相方の徳光は、小学生からSFファンで、毎年日本のどこかで開催されている「SF大会」に参加している人だったので、マン研、アニメ研の他にSF研も作って、SFについて語ったり同人誌を作ったりしていました。

ちょうどSF大会が東京で開催されることになり、東京の大学生のSF研繋がりの縁で、公式パンフレットの制作を造形大SF研で引き受けることになり、かっこいい本を作ることを目指してメンバーの中でVD専攻の同級生がアートディレクターになり杉浦康平さんに影響を受けたデザインで制作しました。

私はマスコットキャラクターの清書や、授業で覚えた写植を打って版下作成をするなど本を作る仕事(ボランティア)を手伝いました。マン研、アニメ研、SF研のメンバーは少しずつ違っていましたが、中心メンバーは全て重なっていて並行して活動していましたね。

――『宇宙戦艦ヤマト』はその頃ですか?

TVアニメの放送時はまだ高校生でしたね。「アニメージュ」の第一号発行が1978年ですので、造形大学一年生の時。日本で初めてのアニメーションの専門誌が出たというのは大きなトピックでした。丁度そういうタイミングだったんです。

――(2025年の日本アニメーション学会)大会で徳光先生が「アニメーションと、アニメとは違う」みたいなことをおっしゃっていました。「我々は“アニメーション”だ」という感じだったんですか?

学生当時はそれほど強く意識していませんでしたが、のちに学科を設立した際、教員間では「アニメ」と呼ばれることを避ける傾向がありましたね。

――70年代は、くっきり「アニメ」と「アニメーション」は区別されていたのですね。

個人的な感覚ですが、まず「アニメーション」の方が先で、「アニメージュ」や「アニメブーム」と言う言葉が出てきたところで「アニメ」は商業アニメを指す言葉だということが、後から浸透していった気がしています。

では短編あるいは今で言うインディペンデント系の作品を区別する際に何と言ったら良いのか。困って一時期アート・アニメーションなどと呼ばれましたけれど、結局定着しませんでした。

長編、短編、商業、インディペンデント、アートなど多くの側面がありますが、商業作品もアートですし、短編は商業にならないとも言えません。ですので、大きく全体を総称する言葉としてどれも「アニメーション」で良いと思っています。

――70年代はすごかったのですね。学生さんが本当にプロ顔負けの上映会はするわ、パンフレットデザインはするわという。

今はデジタルで学生でもクオリティの高いものができる時代になりましたが、当時はアナログで、やれる範囲で面白そうな事に手を出していましたね。美大は表現をやりたくて来るところで、教えてもらうというより各自が勝手に創作活動をやっているという空気でした。

現在の大学では、退学者を減らすための対策を強く求められますが、昔の方がむしろ離籍者は多かったように思います。当時はそれが、今ほど大きな問題として捉えられていなかったのではないでしょうか。

昨年(2025年)造形大の設立60周年記念で「キャンパス展」という展示があり、私も協力しました。その際、学生時代の資料を見返したり同級生にリサーチしたりしたのですが、ビジュアルデザイン専攻の入学時50数名のうち、10数名が中退していることが分かり驚きました。

当時は、在学中からすでに親の会社を切り盛りしている同級生がいましたし、起業して去っていく人以外にも、いつの間にかいなくなる学生が多かった。これは私たちの専攻に限ったことではなかったように思います。

浪人生が多く、平均年齢が高かったことも影響しているかもしれませんが、当時の美大生は今よりも自立していて、学歴をあまり気にしていなかったのかもしれません。もともと「好きなこと」をやるために集まった仲間ですから、興味が移ったり他にやりたいことが見つかったりすれば途中で辞めるのも当たり前。そんな感覚は、私の中に今でもあります。

――今でも辞めていかれた方と交流はあるんですか?

あまりないですね。残った卒業生で還暦記念の同窓会をして久しぶりに集まりましたが、そこでもどうしているのかな?という話をしました。

――ということは、アニメーション業界にはいらっしゃらない?

私はデザイン業界に進まなかったので、そちらの動向は詳しく把握していません。ただ、同級生や部活の友人、先輩・後輩など、アニメーション業界へ進んだ人はかなりの数にのぼります。中には、ゴジラのガレージキットで名を馳せた人もいますね。

――アニメ研、マンガ研、ちょっとSF研みたいな感じで大学時代を過ごされて、実験アニメーション作品を作り始めて、そして大学卒業後、どのようなお仕事をされたのですか?

徳光と造形大でIKIFを結成しまして卒業後も継続して作品を作り続けたいと思いました。アニメーション作家では食べていけませんので、学んでいたデザイン分野で仕事を探しました。

アニメ研の顧問になってくださった神田昭夫先生は、グラフィックデザイナーの著名な方である一方で「ファン・アンド・ファンシー・フリー」というアニメーション同人誌を、森卓也さん、おかだえみこさん、神田先生と大学同期の和田誠さんと一緒に作っていた方で、その本を見せていただいた時に、全ての文字が神田先生のガリ版の書き文字(活字のような文字)で驚愕しました。先生の担当されていたタイポグラフィの授業も大好きでした。

神田先生を尊敬していましたし、編集デザインのお仕事ができたらという憧れで、ふわっと活動していたのです。

しかし、アニメーションにハマってデザインの勉強は適当にやっていましたし、デザインに命をかけるという姿勢もなく、就職先が決まらないまま卒業間近の2月に新聞の求人欄を眺めていたら、おもちゃ会社トミーの二次募集を見つけました。しかも条件が週休二日。その当時は週休二日の会社は多くなく、作品を作る時間が取れそうなことと、おもちゃ会社が面白そうだという興味で応募しました。

面接時にいくつかデザインの課題を持って行って、部活の話はしたかどうかも覚えていないのですが、書かされたアンケートの「尊敬する人物は誰ですか」という設問に「ウォルト・ディズニー」と書いたところ合格し、ディズニー商品を扱う事業部に配属されました。

私が入社した当時(1982年)おもちゃの開発と製造を含めた「トミー工業株式会社」と、営業を中心とする「株式会社トミー」という二つの会社が一つの敷地の中にそれぞれ別の建物で分かれていました。

通常クリエイティブ希望者はトミー工業の開発部に配属されることが常でしたが、ディズニーキャラクターを扱う部署があったのは株式会社トミーだったのです。

ここでは営業と企画開発が同じ屋根の下にまとめられ「FV(ファッション・バラエティ)事業部」として新設されたばかりでプレハブ社屋が職場でした。大きな会議は隣接する別の建物に行って参加するといった状況でしたね。

その部署では前年までディズニー含むワールドキャラクターとTVアニメーションの版権商品を扱っていたのですが、翌年1983年東京ディズニーランドのオープンで、スポンサーと出店が決まり、お土産グッズの需要に応える必要がありました。

また、当時原宿の竹下通りや自由が丘などで若い女子が集まるおしゃれな雑貨屋さんが流行っていたこと、ゼンマイで動く「トコトコスニーカー」が近藤真彦の「スニーカーぶる〜す」のヒットのおかげで若い女子に「カワイイ」と買ってもらえたことで「ちいさい仲間たち」として売り出そうとしていたこと、スヌーピー、ワーナー、ディズニーのキャラクター商品を「脱おもちゃ」「ターゲットは若い女性」を掲げて企画開発販売していこうとしていた中で「ディズニーを尊敬」している私が配属されたのは自然の成り行きで、運に恵まれたとしか思えません。

トミーはトミカやプラレールに代表される男児玩具が得意な会社です。男児はトミー、女児はリカちゃんのタカラと言われていました。(後に合併するのもお互いの強みを合わせたということでしょう)確かに営業も開発も男性が多い印象でしたね。

キティちゃんやマイメロディを筆頭に「サンリオ」や文具の「ミドリ」、「ソニークリエイティブプロダクツ」など「ファンシーグッズ」が花開いた時期でもあり、売れるものを作るために、若い女子の意見やセンスが必要だとよく言われました。

市場調査してトレンドを探しつつ、おもちゃを雑貨風にリニューアルする際のカラーリングから始まり、後にはオリジナル企画まで任されました。新人でしたが「この蛍光色が流行色です」とか「今このキャラクターやグッズが流行っています」とか、市場調査で裏付けをとれば、考えたアイディアや意見は尊重してもらえましたし、次々と商品開発を任せてくれる職場でした。

ゼロから商品開発を進め、生産後に売り場に並び、結果が出るまでの一貫した流れを追いかける仕事で、それはアニメーションのワークフローとも似ています。給料をいただきながら社会人として大切なことを教えてもらえたなという感じがしますね。

――男女雇用機会均等法(1985年成立)の頃ですか?

あまり意識したことはなかったですけどちょうどそのぐらいのタイミングですね。まだ給料の金額面で差はあったと思いますが。

私の一年前に入社した多摩美大出身の友人は、結婚しても仕事を続け出産、子育てしながら勤めていました。自分も結婚して辞める意識はなく、5つ年下の次の新人女性も、私たちの姿を見て結婚しても働くのが当たり前だと思ったそうです。

雇用機会均等法の恩恵もあったのかもしれませんが、結婚したら辞めるという常識が私たちの世代で変化して、それが後輩に影響を与えたのかもしれません。後輩はその後、結婚して3人のお子さんを育てながら定年まで勤め上げて、定年後も請われて嘱託で残り、現在もベビー用品の開発でヒット作を生み出しています。振り返ってみますとやはり女性の働き方が変化する節目だった感じがしますね。

――ご結婚されたのは就職してからですか?

その事業部で5年ほど働いた後、再編があってカプセルトイや食玩(お菓子におもちゃが付く商品)を扱う事業部に移動後、トミーから分社化したユージンという会社に配属されました。通勤場所も東日本橋になったちょうどその頃に結婚しました。

まだ昔は仲人制度があって、普通、夫になる人が連れてくるはずが、私の上司に仲人になっていただきました。会社でIKIFとしてアニメーションを制作していることはオープンにしていて、仲の良い同僚に上映会に来てもらったこともあります。

第一次ユージンと呼ばれることになるその会社が、事業所を解散することになった際に、トミーに戻ってもいいし、退職しても良いという選択だったので、ちょうど結婚もできたし、お祝い金ももらったし、フリーになっても、おもちゃの仕事がもらえそうというのもありましたので、退職する決断をしました。会社都合で辞めたので失業保険がすぐ出ました。

7年程トミーとユージンに在籍して、1988年、ちょうど30歳の頃に退職してフリーランスになりました。その後2、3年ほどは、個人でコピー機を購入し、自宅で商品企画のスケッチを描く仕事などをしていましたね。

――その頃はIKIFで?

そうですね、IKIFで活動していましたが、まだ商売にはなっていませんでした。相方の徳光はいろいろな仕事をしながら食い繋いでいたという感じです。IKIFでワークショップの講師の話がしばしば来ていたのですが、会社員の身ではできなかったので話が来たらIKIFとして二人でやるようになりました。それが教える=教育の仕事の始まりですね。

1980年代の終わりに、コンピューターのAmigaを購入し、展覧会のちょっとした企画にパソコンを使って映像を出すような仕事をしているうちに、1988年の終わりか89年に押井守監督の『機動警察パトレイバー the Movie』の仕事が来たのです。当時CGというと莫大な予算がかかっていましたが、そんな予算はないから安く作ってくれるところないかというので、大学の時の二つ上くらいの絵画科の先輩で、SF研、アニメ研で一緒に活動していた人がその映画のアニメーターで原画を描いていて、私たちがAmigaで作っていることを知っていて、IKIFだったら安くやってくれるかもしれないと紹介してもらって、じゃやりますとなりました。それが商業アニメに携わる最初のきっかけでした。

その頃は『パトレイバー』はスタジオディーンで作っていて、その流れでその後プロダクション・アイジーさんとお仕事させていただくようになりました。ちょうどアニメーションのデジタル化の黎明期で、徳光はアイジーのスタジオと自宅と大学(非常勤)の授業を行ったり来たりしていました。造形大の学生をアルバイトに使って、卒業後そのままスタッフになってもらって、仕事も増えていくという感じで。じゃあ会社にしたほうがいいかなということになったのです。

その頃には私も造形大の非常勤になっていて長男の子育てしながら非常勤を続けました。近くに住んでいた両親に保育園のお迎えや、仕事が忙しい時は預かってもらうなど助けてもらっていました。学生アルバイトの募集もベビーシッターもできる人でと呼びかけていましたね。

父から個人でやるより会社にしたほうがいいとアドバイスされ、1997年に「株式会社セブンフォトグラフィ映像事業部 IKIF+」として会社組織になりました。2001年に父が亡くなり、2015年に社名を「IKIF+(アイケイアイエフプラス)」としました。育った中堅スタッフが、プロデューサー、ディレクター、取締役となり今は彼らが中心になって運営しています。

――その頃、制作はどちらでされていたのですか?

最初は調布の京王多摩川の自宅賃貸マンションの一室にコンピューターを置いて、そこにアルバイトを呼んでやっていました。親が京王多摩川に家を買って私たちが受け継ぐ前提で住んでいましたが、私が工芸大に入職した年に父が亡くなり、その後母の介護同居が発生したので、親の住んでいた一軒家をスタジオにしました。

――大学で教えつつ、制作をしつつ、子育てもしつつという状態だったのですね。

本当に、当時は忙しすぎて何が何だかわからない状態でしたね。二人組(ユニット)のどちらも大学の専任教員を務めていたので、互いの事情を理解し合えたのは大きかったと思います。

また、親が近くに家を買って「攻めてきた」のも幸いし、子供たちの面倒を見てもらえたことにも助けられました。保育園で知り合った先生が退職してフリーになられた際には、個人でシッターとしてお願いしたこともあります。それなりにお金はかかりましたが、当時は乗り切るために手段を選んでいられませんでした。

ベビーシッターも兼ねてアルバイトで来てもらった学生が、IKIF+を一緒に運営し、支えてもらう存在になるとは思っていませんでしたが、結果的にそうなったので、忙しかったけれども大学で教えていたことで、貴重な人との縁ができたことは幸運でした。

――その教え子さんは男女比で言うと?

取締役になったのは男性と女性一人ずつですね。

――学生さんの男女比は半々ぐらい?

造形大の初期の様子については徳光のほうが詳しいですが、コンピューターを使ってなにかやる学科・専攻ができた当時は、CGやりたい人は男性が多く、女性の学生数は少なかったと思います。

――今もやっぱりCGは男性のほうが多いような気がします。

それは少しはあるかもしれないのですが、アニメーションを学んでいる学生でいうと現在は造形大も工芸大も女子のほうが多い傾向です。

――逆に男性が取れないみたいなお話も聞いたことがあります。

企業の採用で、男性が欲しいのに良い人がいないということでしょうか。男性は長く働けるから取りたいという考え方がありますが、結婚・出産・育児があっても女性が働き続けるケースが増えてきているように感じます。個人の考え方もありますが、夫婦で協力して子育てをしていくことが普通になってきていますね。

――トミーの話にちょっと戻らせていただきたいのですが、周りの環境はどうでしたか?女性の意見が通りやすいタイミングだったとおっしゃっていましたが。

管理職は全員男性でしたね。

――実際男社会で、伝統的慣習のようなものはありましたか?

性別による差別を感じることは特になく、むしろ周囲には良くしていただいたと感じています。「女性の感性」が求められていた職場でもあり、それを認めて仕事を任せていただけた。

担当者として、一人で業者の打ち合わせやチェックに赴く出張も多かったです。例えば、陶器の貯金箱の制作では、チェックと打ち合わせのために名古屋の瀬戸にある工房へ一人で出向くなど、地方への出張も何度か経験しました。

責任ある仕事を任せてもらう一方で、上司からはしっかりサポートしてもらえていました。役割分担の細かいトミー工業の開発部ではなく、小さいチームだったからかもしれません。開発部ではアニメーションの現場と同様にメカはメカのチーム、パッケージはパッケージチーム、デザインの仕事はデザインチームと大所帯の中に専門チームを置いて分業で進めていくやり方でしたが、私の所属していた事業部は、デザイナー、メカニック、営業が1つのチームに集まっている部隊でした。

企画は皆で広くアイディアを出し合い、市場調査して、営業に「これ売れるかな」と相談。プランニングからすぐに試作を作ってプレゼン、ターゲットや数量を計画して生産ラインに載せて世に出て行くところまで追いかけていくスタイルです。製品が出来上がるまで追いかけていく、今思えばアニメーションの制作プロセスと同じモノづくりの仕事に関りましたが、その際に若いからとか女性だからという区別は感じませんでしたね。

おもちゃショーで商品説明をしたり、玩具店に出向して店頭実演販売やレジ、プレゼント用のラッピングを覚えたり。お店で自分の会社のものじゃないものが売れると悔しくて、トミーの商品を棚の前のほうに出したりして。

任天堂が「ゲーム&ウオッチ」を発売して大ヒットし、玩具の世界が徐々にゲームに席捲されていく様子をリアルタイムで見ていました。もともとは花札やトランプの会社だった任天堂が、マジックハンド(ウルトラハンド)などの玩具でヒットを飛ばし、やがてファミリーコンピュータやスーパーファミコンへ至る。そうした業界の劇的な変化を垣間見られたのは、非常に面白い経験でしたね。

私が退職した後、トミーがタカラと合併して「タカラトミー」になった時は、本当に驚きました。

――その時は、同僚の方で女性は結構いらっしゃいました?

全体の中では女性の割合は少なかったですね。事業部全体で30名中、女性は4、5名程度の割合で、営業の女性は2名ほどでした。営業の女性もバリバリ仕事をしていました。

――(木船さんは)陽気な性格の方で、人の中心にいらしたのだろうなという感じがします。

思い返すと年の近い女性の同僚は私より話の上手い人が多かったですよ。仕事中はもちろん静かに仕事をしていますけれど、飲み会では皆仲良くわいわいして、とにかく営業の人が面白いので仕事中でも宴会の時も大笑いしてしまうことが度々ありました。

――そういう時って、よくある「女はお酌しなきゃいけない」というのはなかったですか?

うっすらありましたが、あまり気にしていませんでした。強要もされませんでしたし。私自身が喘息でお酒飲むと苦しくなるたちで「飲めない」といえば無理に飲まされることもなく。皆が勝手に飲んでいましたね。男社会で抑圧された経験はまったくないです。会社の社風だったのかもしれません。遊びを売る商売ですから、みんなが楽しくないとダメみたいな空気があったように思います。トミーは鉄道模型も定番商品でしたから、鉄道が好きで就職してホビー事業部に行きたいけど、ファッション・バラエティにいて「俺わかんねぇよ」とぼやきつつ仕事をこなす営業マンも。でも、その後その鉄ちゃんが無事ホビー事業部に行けて良かったねと。

おもちゃは世の中に絶対なくてはならないものではないけど、それで人を楽しませるところはアニメーションと通じていますし、そういう会社に入れたのは良かったと思いますね。

あと、自分で企画からデザインもしてオリジナル商品を作ることもさせてもらいました。よく無謀なことをさせたなと思いますが。確かに多くは売れませんでしたし、最初から小ロットで売りましょうと。

職場での差別やストレスは特になかったと繰り返しお話ししてきましたが、今振り返ると、5歳上の上司がそう感じさせないよう配慮し、守ってくれていたのかもしれません。

当時は全く意識していませんでしたが、年齢の近い上司や同僚たちの意識が高かったからこそ、私はストレスを感じることなく楽しく過ごせていたのだと、今になって感じます。若い頃の自分がただ鈍感だっただけかもしれませんが、そうした周囲の支えがあったからこそ、仕事に没頭できていたのでしょうね。

――どんな商品ですか?

<オリジナル商品について>

人気ショップを市場調査して、どんな素材やギミックがあって、どんなデザインが売れているのかをリサーチして、たくさんのアイディアを出します。海外にも注目されるようになった「カワイイ」ですが商品はカワイイものつまり若い女性が好きになってくれるのが基本。そこに玩具のトミーらしさである、立体物で、実用的で、ギミック(仕掛け・カラクリ・演出)のある驚きや楽しさを提供する商品開発を目指していました。

<トミーの貯金箱シリーズ>

トミーでは元々「パックマン」貯金箱(コインを食べるギミック付き)が大ヒットして、売れ筋の商品ラインナップを形成していました。ただそれまでは大人向け、男性向けだったため、女性向けのアイディアを求められました。元々あったもののデザイン替えとしてディズニーキャラクター等をあしらって出したものもいくつかあります。オリジナルではプラスチック素材も含め、陶器や木製品にも着目してアイディアをたくさん出しました。

商品例1)陶器製メモボード「ポエムメッセージ」

株式会社トミーFV事業部にて1985年に開発を担当した「ポエムメッセージ」(木船園子所有)

陶器の表面にホワイトボードマーカーで絵や文字が書けることに着目して陶器製ホワイトボード機能付き貯金箱を企画しました。サンプルまで制作しましたが、最終的には貯金箱機能のない、メッセージボードとして商品化されました。

商品例2)素焼きの貯金箱「HANIWA CLUB」

株式会社トミーFV事業部にて1985年に開発を担当した「HANIWA CLIB」(木船園子氏所有)

当時「おーい!はに丸」という子供番組が放送中で好評を博していたことに着目し、埴輪をデザイン化した素焼きの貯金箱を、人型・兵士型・馬型の3種、商品化しました。私自身、埴輪が好きで形状デザインの「かわいさ」にこだわってデザインや3面図を起こしました。今ではハニワグッズが珍しくなくなりましたが、その先駆けだと自負しています(笑)

商品例3)木製雑貨シリーズ「ウッドクリエーション えんにちまいにちお稲荷通り」

株式会社トミーFV事業部にて1985年に開発を担当した「ウッドクリエーション えんにちまいにちお稲荷通り」(木船園子氏所有)

お稲荷神社のきつね像をモチーフにキャラクターを設定、デザインし、木製品シリーズとして展開しました。貯金箱、フォトフレーム、ミニコルクボード、ソフビ人形型スタンプ、コースター、メモスタンド、ネームタッグ、ボールペン、ミニステッカー、ミニお面、キーチェーン、フック、バッジというラインナップで、全部を飾ると稲荷神社の世界観になるというものでした。取材と商品化のお許しを得るため、赤坂の豊川稲荷に行きパワースポットぶりに驚いた記憶があります。

商品例4)「アニマルクリーナー」

株式会社ユージン第2事業部にて1986年頃に開発を担当した「アニマルクリーナー」(木船園子氏所有)

「タワシってハリネズミそっくりでカワイイ」が発想の元で、日用品のお掃除グッズをかわいい「いきもの」のデザインにして商品化できないかと考えてシリーズ化したものです。

当時新素材だったボール型クリーナーにソフビで首部分を付けた「クリーンダチョウ」、モップを鶏の巣に見立ててニワトリ部分を持ち手にした「ニワトリモップ」、リスの尻尾がはたきになる「ハタキリス」の3種。

――当時の生活はどうでしたか?

会社で玩具の商品化の仕事をしつつ、並行してIKIFで作品を作っていましたので、会社が終わると徳光の住んでいるところに行って、夜中まで作業して帰って少し寝て会社に行くことも多かったです。

会社は週休二日でしたが、その代わり始業と終業、昼休み時間を減らして1日の勤務時間を30分程度長くしていたため、始業時間は午前8時50分でした。自宅から今はスカイツリーのお膝元になった押上駅を通って、隅田川と荒川を超えて葛飾区の立石まで東京を横断する経路で1時間30分程度はかかりました。朝7時には家を出て途中駅で待てば始発に乗れたので、そこで睡眠時間を確保しつつ、週5日頑張って通っていました。前の日徹夜すると午前中は使い物にならず睡魔が襲うとトイレに行ってやり過ごすなど苦労しましたが、若かったので乗り切れたようです。

――アニメーションの自主制作の中の女性の比率はいかがでしたか?

大学生時代、アニドウがやった上映会だったと思うのですが、「相原信洋×古川タク アニメタッグマッチ」という上映会がありまして、それを見て面白いと思い、相原さんを造形大の学園祭に呼ぼうということになって、徳光と二人でイメージフォーラムに伺って相原さんに取材して資料冊子を作り、トーク付きの上映会をやりました。

その終了後に見に来た人たちと話して、相原さんから「これを機会にみんなで作って発表しよう」と焚き付けられまして、それで結成したのが「ANIMATION80」というグループでした。

武蔵美、多摩美でアニメーションの自主制作をしている学生や専門学校生たちが主な顔ぶれでした。1980年にできたからANIMATION80と命名して、その年に第一回上映会を行なっています。卒業後も11回上映会までは出品していました。

武蔵美には「謎の幻燈団」というアニメーション同好会があって、そこに飯面雅子さん、浅野優子さん、小山佳織さん他、女性作家が数人いらっしゃいましたね。相原さんの上映会にも参加していたので、ANIMATION80で一緒にやろうということになりました。あと片山雅博さんが率いていた「グループえびせん」にも女性作家が多かったと思います。

浅野さんは最近実験映画を見る会でこれまでの作品をまとめて上映されていましたし、川崎市市民ミュージアム主催の上映会でもご一緒しました。作家という立ち位置で作り続けていらっしゃる方です。飯面雅子さんはサンドアートのライブを行うアーティストとして、映像含め活躍していて頑張ってらっしゃいますね。「グループえびせん」の女性の方二人が、若くして亡くなってしまってとても残念でした。

飯面さんが女性だけのアニメーション作家を集めて「ピーチ・アニメーション」という上映会を企画開催していました。ビデオレーベルの出版で、パッケージのデザインと版下制作でお手伝いしたこともありましたが、IKIFは半分男性のため上映には参加していませんでした。

当事者の飯面さんや浅野さんに取材されると良いと思いますが、女性作家が集まりアピールしていく流れは確実にありましたね。

結婚・子育てでどうしてもブランクができてしまうというのはあるかもしれませんが、一段落して活動できるようになったらやり始める人も多く、やる人はやるというのは男性も女性も変わらないと思いますね。

――ご自身で結婚・子育てを経験されて、何か自分の作品が少し変わりましたか?

やはり結婚・子育てと大学教員の仕事で、気持ちがそっちに持っていかれたなというのはあります。大学の業務が重くてまとまった時間が取れず映像作品の制作は難しくなりましたが、時々仕事で商業アニメーションのオープニングやエンディングを作る仕事が来た時は大変でしたが、やりがいや心の支えになりましたね。

驚き盤(フェナキストスコープ)やゾートロープ等の映像装置が好きで昔から作品に反映させてきたのと、それを教材として学生に指導をしてきたこともあり、光のフリッカーで動く驚き盤のコマ作りは改良を重ねつつ続けています。

元々記憶をテーマに抽象アニメーションを作って来ましたが、定年を機に身辺の荷物を片付けていて、カメラマンだった父の遺した膨大な個人写真を作品にできないか考えるようになりました。

紙の写真は数年かけてスキャンしてデジタル化しましたので、現物のプリントはコマ撮りして捨てようと決め、2024年の2月に工芸大で開催した私の退職記念展の会場に撮影セットを組んで撮り終えるつもりで始めました。撮りきれず6−7月にかけて開催した造形大の退職記念展でも終わらず、8月から9月頭まで会社のスタジオで続きを撮り、編集を終えて映像が出来上がったのが同年11月でした。

長年IKIFの作品の音楽を作ってくださってきた谷川賢作さんにお願いして2026年の1月に録音、2月に完成形になりました。人が見て面白いのかどうか正直心配なのですが、発表する機会は作ろうと考えています。

徳光はコロナ禍で心臓手術をして無理ができないのと会社の運営仕事もあるため、ゆっくりペースにはなりますが、身辺整理をしながら今後も少しずつ作っていけたらと思っています。

――昨今エゴ・ドキュメントというのが流行ってますよね。そうした個人の記憶・記録を紐解いて、その時代の風潮を考えるみたいな。そういう意味で、その作品はとても興味深いですね。

2025年のイメージフォーラムフェスティバルのプログラムの一部を見に行きましたが、若い人が戦争中や過去について紐解いて作品化しているものがいくつかありました。戦後80年経って昔のことを振り返る、昔の記憶や記録を残さなければといった流れが今あるような気がしています。若い人がそこに着目して作品にしている感じがしました。

私たちの発想は、歳取ったから過去を振り返って書き留めておこうというものですが、現在の若い作家は自分の知らなかったことを知って、作品を作るきっかけにしています。たまたま見たプログラムがそうだっただけかもしれないのですが、今回の映画祭を見て感じました。

自分のおばあさん、おじいさんの時代のことを調査し、聞き取りをしているドキュメンタリー作品。アニメーションではなかったのですが、手法として抽象的な絵を入れたり、コマ撮りが入っていたり、いろいろな手法を使って過去を浮き彫りにする作品が印象に残りました。

東京大空襲を経験した人から聞いた話を映像化した作品では、子供をおぶって逃げたけど子供が死んでしまったということをずっと語っている。一方で画面に映っているのは現在の東京。そういう映画です。

私たちの若い頃は高度経済成長と共に育ったので熱に任せて好きなことだけで突っ走っていましたが、今の若い人たちはそういう気分ではないのでしょうね。未来に希望がないから過去にいくのかもしれません。

――ここまで女性差別は経験されず、結構好きなことを仕事にできたというようなキャリアパスのお話を伺ったのですが、これから同じような職業に就きたい、あるいは独立して何か制作をしたいと思っている若い方々に向けて、何かメッセージいただけますか?

最近の学生さんたちを見ていると、どこか冷めているというか、ものづくりに対する熱量が少し物足りないなと感じることがあります。作品制作においても、「もう一歩粘ればぐんと良くなるのに」という場面で、そこまで突き詰める貪欲さが見られない。自分の中で「この程度でいいや」と早々に区切りをつけて、打ち止めにしてしまう傾向があるように思います。

「もっと頑張れ」と言えない空気は感じつつ、好きなことをやって気がついたら今こうなった自分から言えることは、好きなことをとりあえず一生懸命やれば、その先に進めるし、居場所がきっとある。なので、一つ一つの制作物、課題や卒業制作に妥協しないで向き合って作ることが自分のパスポートになるよと伝えています。

就職に関しては、若い世代はワークライフバランスを大切にする傾向があるので、アニメーション業界に進むとしても将来性のある給料や条件の良い企業を探している様子です。

在学中からアニメーターになると決めている学生も多く、絵が達者な人はアニメーターのアルバイトで稼いでいたりして、それは良いけれど課題の方に身が入らないという弊害も。アニメーターに憧れて入学しても、実力的に届かないなと気づくと違う職種を模索するようになりますが、そういう現実を受け入れて「何を仕事にするか」を冷静に考えて就活しているようです。

平和な時代とも言えない不穏な時代でもあり、高度経済成長だった私たちの頃とは違う、将来への不安が強いように思いますそれとやはり「AI」の登場でしょうか。。

大学でもAIをどう扱っていくかが大きな問題ですね。これまでのデジタルツールは自分の手を動かす延長線上のツールでしたが、手を動かさずに生成で画像や映像ができてしまうツールを教育にどう組み込むのか、学生にどのようにアドバイスすべきか、単純に禁止すればすむ事でもなく、何らかの線引きや指針が必要だとわかってはいても難しい。常識が変化し更新される時代の中で指導する側も議論と実践を迫られていて本当に大変な時代になったなあと感じます。

CGが出てきた時に、もう手描きがなくなってすべてがCGだけになるみたいに言われたこともありましたが、手描きは手描きで残っていますよね。3DCGと2DCGが融合した表現も花開いていますし、AIを使う塩梅も0から100%まで選択できます。

自分にしか表現できないことを探す、自分がやりたいことは何か、自分のテーマを見つけることが大事なんじゃないかなって思います。知り合いの言葉ですが「スタートは紙と鉛筆」に回帰するのではと思います。

あと、最近の学生は失敗したくないからか、正解を早く教えて欲しいという傾向があるのですが、答えを教えたくなくて「まずやってみよう」「失敗してもいい」「回答は自分で探してね」という指導を心がけています。

反発はあると思いますが。クリエイティブには正解がないから。技術面では様々な制作のルートがあるので一つの方法を教えられるより、自分で調べること、リサーチ力を鍛えることも大切。今は探せば情報がネットにも豊富にありますし。常に学び続けて自分がやりたいことを見つけ出す、発見していくことができないと、これからどんどん変化していく世の中についていけないでしょう。

仕事をもらう受け身の姿勢ではなくて、自分で探し発見して、仕事を生み出せる人が求められます。様々にアンテナを貼り、好奇心を旺盛にして楽しむ心を持つことが一番かなと思います。 アニメーションの現場でも正社員雇用が当たり前になり、8時間労働が基本になって長時間労働は避けるように指導されていますが、老害を承知で言うと、労働環境をちゃんとすればするほど、制作時間の制限が出てきてその人の成長する機会を逆に奪う可能性があるなと感じてしまいます。

昭和の働き方、特にアニメーション業界では徹夜でも何でもするのが当たり前でしたが、今それはもちろんやってはいけないこと。ですが、徹夜する中で吸収できるスキルもたくさんあって、きちんとすればするほど、そういう機会に恵まれないことになってしまう葛藤があります。 朝来て夕方8時間勤務で退社してその後は自分の時間を楽しみたい。プライベートと仕事は切り分けることが原則になった一方で、制作単価が上昇して報酬に見合う成果をシビアに求められる時代になってきています。

各個人が成長やスキルアップのためにどのように時間を使うのかが問われています。仕事をしながら学ぶ時間をどう取るのか。ワークライフバランスをどう考えるか。難しい時代になったなと思います。

――ジェンダー平等と言われている時代ですけど、女性に特に言いたいことはありますか?

女性は結婚・育児・子育てが大きな壁ですね。結婚や子供を持たないことを選択する方もいらっしゃいますが。正社員なら産休・育休が取得できて、お金もある程度保証されますが、正規雇用以外、業務委託でも企業や社会が支えて、働きやすい環境に世の中がなると良いと思います。意識は高くなりましたが、夫や家族が協力してくれるかどうかも大きいですよね。

困ったときは自分だけで悩まずに、相談場所は必ずあるので探して相談して助けてもらってください。うちの社内でも、最近第一子を産んだ人が、3人の子供がいらっしゃるママさんスタッフについて、「彼女は仕事と子育てをどうしているのでしょう?」と聞くので、「本人に聞けば?」とアドバイスしました。

――遠慮しちゃってるんですか?

リモートなので、なかなか話しかけられない。打ち合わせをビデオ会議でするのですが、なかなか雑談やプライベートのことを話すことが難しいのはリモートワークの弱点ですね。

リモートの良い面ももちろんあって、子供が病気になって保育園や学校に迎えにいくことになっても出社しているよりは動きやすい。コロナ禍でリモートワークができるようになったことは子育て世代も仕事を続けることができる手段として良かったと感じています。

仕事の上では何よりも人間同士のコミュニケーションが一番大切ですね。知ること、知識を得ること、実践して成長していく。大学はそのプロセスを学ぶ場でもありますが、最近の学生は知らなすぎる印象が拭えません。

子どもの頃からの読書量が少なかったり、SNSでの短いやり取りが主流になったりしているせいか、文章を書く力も弱くなっている気がします。基礎的な教養や思考の積み重ねが、少し希薄になっているのかもしれません。

そう言った基礎力はクリエイティブの世界に入ってもとても重要であることが学生はピンときていなくて。指導していても興味の幅が狭いので、アニメーション以外の周辺領域についてももっと知って欲しくて「もっと本読めば」とか「美術展見に行ったほうがいいよ」などと案内しますが、なかなか外に出て行動しないのは困ったものだなと思います。

――不思議ですよね。何でも検索して調べられる世の中だけど、意外と浅い知識しかみんな持ってないというか。

そうですね。

――昔よりずいぶん自由になったような気がしますけどね。

調べればすぐ出てくるし、出てこない場合もあるけど。AIは嘘が混じる場合があり注意が必要ですが。昔は情報に飢えていて自分で取りに行ったけれど、今は大量にありすぎて逆に行かないように見えます。

学生がアニメーションしか見ず、実写映画を知らなすぎているため、ゼミで映画鑑賞推進キャンペーンを始めました。映画を視聴させて、ストーリー構成の分析や、カラースクリプトの制作と、実写映画を1分の要約アニメーションにまとめると言う内容です。オススメ映画リストを作って「何年代はこれがいいよ」と案内して映画を観てもらいます。

気になるのは映画館ではなくてサブスク(配信)で観るのでスマホで鑑賞している可能性があり、できるだけ大きな画面で見るように薦めていますが・・・。

アニメーションについても、自分が興味を持った作品は観るけどそれ以外は知らない。工芸大では、『AKIRA』を観た事がない、知らない学生がほとんどなので陶山恵先生の授業で『AKIRA』を見せています。マンガもネットに上がっていませんし、今の若い人にとって大友克洋は「知らない人」です。ネットに上がっていないものは存在しない世になってしまいました…。

――目につかないんですね。

そうですね。恐ろしいですよ。ついこの間の作品だと思っていても気づいたら20年前とか10年前・・・学生全然見たことないみたいな。歳を取ってしまったと実感します。

――我々は、女性の制作者にインタビューをしつつ、女性の表象についての分析もしています。商業のアニメーションからCGなどの部分を請け負って表現されていると思うのですが、商業アニメーションで請け負った仕事で、女性の表現について気になったことなど、これまでにありますか。

携わった作品では気になる点は無かったように思います。徳光から聞いたのですがセクシャルな内容の仕事依頼はあったけど断っていたとのこと。スタッフに気持ちよく仕事をしてもらう上では配慮しますね。暴力表現の強い格闘もの等は女性スタッフから苦手だと言われたことがありました。

――アニメ一般においては何か。

「気になる女性の表現」と少しずれるかもしれないのですが…以前『崖の上のポニョ』を観に行って、おばあさんの表現のリアルさに衝撃を受けたことがありました。ちょうど母の介護をしていた時期で、自分の母と画面の中のおばあさんの仕草や様子が残酷なくらい似ていて、真に迫りすぎて不快になるスレスレのような気分でした。宮﨑監督ご自身の年老いたお母さんへの目線、観察力が、表現に反映されたのだろうなと推察され、圧倒されつつ観たくない気持ちも沸いてしまった自分がいました。

少し前に話題になりましたが、ディズニークラシックスのアニメーション作品の実写リメイクがポリコレ(political correctness)のやりすぎで面白くないと言う話がありました。現在の作り手に昔の作品へのリスペクトがないとは思いませんが、旧作が新作に(良くない形で)上書されてしまうのは悲しいです。

アニメーションを学んでいる学生は、その時代背景も学んだ上で、きちんとディズニークラシックスは見て欲しいです。配信ではなく劇場で見られる機会があると良いですね。

―ご自身の作品『ドラえもん』のオープニングについても教えて下さい。

『映画ドラえもん』のオープニングは、IKIF名義で5作品ほど制作しました。最初に手がけた2004年公開の『のび太のワンニャン時空伝』は大山のぶ代さん他、旧声優陣の最後の劇場版でした。自由にやって良いとのことで、絵コンテを書くところからスタートでした。

『ミニパト』や『立喰師列伝』と同じ手法を使った、ペープサート人形をCGで動かす表現でしたが、シネカリやゾートロープを登場させて、IKIFらしいテイストになったと思います。芝山努監督と、どこかでお目にかかれるかもと期待していましたが、結局一度も会う機会が無かったのは少し残念でした。

その後2006年から新しい声優の人たちに切り替わって新シリーズが始まり、その1作目『映画ドラえもん のび太の恐竜2006』ではオープニングは担当しませんでしたが、本編のCGをIKIF+のスタッフが実質的にCG監督となり制作を担当しました。

翌年の2007年からの4作品(『映画ドラえもん のび太の新魔界大冒険 〜7人の魔法使い〜』『映画ドラえもん のび太と緑の巨人伝』『映画ドラえもん 新・のび太の宇宙開拓史』『映画ドラえもん のび太の人魚大海戦』)はIKIFがオープニングのディレクション、本編CGをIKIF+制作(CG監督)で担当させていただきました。

オープニングは毎回表現テイストを変えて、デジタル切り紙での影絵風や絵本風スタイル、クレイアニメの手法や、パステル調の3DCG表現にチャレンジするなど、とても楽しく制作できたのは良い思い出です。

――本日は、貴重なお話をどうもありがとうございました。